ロボツリン、男性、チベット族、1954年生。父はパラ荘園主のパラ?ザシワンジュ。現(xiàn)在はチベット自治區(qū)ギャンズェ県パンチュエロンボ村の農(nóng)民で、ギャンズェ県の政治協(xié)商會(huì)常務(wù)委員會(huì)委員を務(wù)めている。
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ラサからギャンズェに移り住んだ母
私は1954年にギャンズェ県ギャンラ郷パンチュエロンボ村に生まれてから、ずっとここで生活してきました。父のザシワンジュは、もともとパラ荘園の領(lǐng)主で、パラ家は昔、チベットの地方政府の高官に5人も選ばれたことがある由緒ある家柄です。
父は林樸寺に出家していましたが、1937年にギャンズェに戻り、10年余りで今のパラ荘園を作りました。母の家はもともとロカにあり、ラサで戦亂があった18歳頃に、パラ家の財(cái)産を運(yùn)ぶ祖母と一緒にラサからギャンズェにやって來たそうです。その後、荘園を管理する男性との間に子どもをもうけますが、父が荘園を経営するようになり、その男性はロカにある荘園に移動(dòng)させられて、母との行き來もなくなったようです。
兄弟たちのこと
その後、母は父と一緒に生活するようになり、私たち3人の子どもを生みました。しかし母の身分が低くかったため、私が7歳の時(shí)に父は別の女性と結(jié)婚し、母は荘園の管理者と結(jié)婚させられました。
私たち兄弟3人は貴族の身分を受け継ぐことができませんが、父と度々一緒に生活していたため、衣食住には恵まれていました。私の姉は1954年に中央民族學(xué)院に入り、卒業(yè)後はシェトンモン県で働き、今は退職してシガズェで家を建てています。
兄はラサに行き、民主改革後、家に戻って農(nóng)民をしていましたが、1985年に政策が緩やかになった時(shí)に國(guó)外に父に會(huì)いに行ってから會(huì)っていません。今は米國(guó)で生活しているそうです。私はずっと農(nóng)業(yè)にたずさわり、數(shù)年前にギャンズェ県の政治協(xié)商委員に、1997年には常務(wù)委員に選ばれました。
1958年末頃にラサに行った父は、1959年3月にダライ?ラマと一緒にインドへ亡命し、その後はスイスに住んでいました。戻って來るつもりだったようですが1982年に病気で亡くなり、私と一緒に暮らしていた母も、1991年にこの世を去りました。
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10部屋ある2階建ての部屋
今、私たちは、もともと奴隷だった人も含め、隣近所の人たちと仲良く付き合っています。以前の対立は當(dāng)時(shí)の制度がもたらしたもので、この家も近所の人たちが手伝ってくれて建て、生活もよくなり、著るものにも食べるものにも不自由はありません。
民主改革前に私たちが住んでいたのは、部屋3つ、倉(cāng)庫(kù)2つの家でした。民主改革後は私たちのような家の出身は領(lǐng)主代理人に決められ、部屋は2部屋しかありませんでした。人民公社の末期には政策が緩み、生活のレベルも少しよくなったこともあって、5つの部屋がある新しい平屋の住宅を建てました。そして1986年には他の人たちと同じように、今住んでいる10の部屋と20本の柱がある2階建ての住宅を建てたのです。
日に日によくなる今の生活。私の家はこの村で特に飛びぬけているわけではありませんが、村のほとんどの人たちの生活は、多くの面で昔の領(lǐng)主の生活レベルを超えています。
「チャイナネット」2009年3月9日
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