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チベット醫(yī)薬

北京週報(bào)  |  2009-03-10

チベット醫(yī)薬。

タグ:チベット醫(yī)薬 ,四部醫(yī)典,四部醫(yī)典シリーズ掛け図

発信時(shí)間:2009-03-10 14:44:40 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

 チベットと言えば、誰でもすぐ「世界の屋根」と仏教のことを思い出すが、しかし、2000余年にわたって青海?チベット高原に伝えられてきたチベット醫(yī)薬と言えば、それについて知っている人は少ないようである。また、チベット醫(yī)薬については、巫術(shù)だと言う人もいれば、古代インドの醫(yī)學(xué)から進(jìn)展、変化してきたため、古代インド醫(yī)學(xué)の複製品だと言う人もいる。ちなみに、これは1970年代に盛んに言いはやされていたことでもあった。

 「これらの見方は間違いだ」と、中國民族醫(yī)薬學(xué)會(huì)の蔡景峰副會(huì)長は指摘している。七〇年代の初めからチベット醫(yī)學(xué)の歴史についての研究に従事してきた蔡教授はさらに、チベット醫(yī)學(xué)はいまや、漢方醫(yī)學(xué)、チベット醫(yī)學(xué)、インド醫(yī)學(xué)、古代ギリシャ醫(yī)學(xué)という世界の醫(yī)學(xué)界に認(rèn)められている四大伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)の一つであり、チベット族の人々が複雑な自然環(huán)境の中で長期にわたってさまざまな疾病と闘う中で形成された民族の醫(yī)學(xué)として、完備した理論體系もあれば、豊富な実踐経験もあり、中國の伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)の重要な構(gòu)成部分となっている、と語った。

 史書によれば、紀(jì)元前の數(shù)百年間、代々チベット高原に暮らしていた人々は、一部の動(dòng)物、植物、鉱物に痛みを止め、病気を追い払う効き目があることが分かるようになっていた。そればかりでなく、系統(tǒng)的な理論を持たないとは言っても、スー油(ウシやヒツジの乳を煮つめたときに浮かび上がる油)で出血を止め、チンコー酒(チベット特産のハダカムギで作った酒)の酒かすで外傷を治療する民間療法だけでなく、瀉血、火療、塗布、マッサージなど簡単な治療法をも使いこなすようになった。

 四世紀(jì)のラトゥトゥルの時(shí)期に、熱療法による寒病の治療、寒療法による熱病の治療という醫(yī)學(xué)理論が生まれた。七世紀(jì)、チベット王のソンツェン?ガンポ(松贊干布)がチベット高原一帯を統(tǒng)一し、とばん(吐蕃)王朝を打ち立てた。また、チベットに仏経の経典の導(dǎo)入を始め、周辺の國の醫(yī)者を招聘し、さらに唐朝(618~907)とは婚姻により親戚を結(jié)び、文成公主がチベットに嫁入りした。文成公主がチベット入りする時(shí)、「404種類の処方箋、5種類の診斷法、6種類の醫(yī)療器具、4種類の醫(yī)學(xué)書」を攜えていった。これは吐蕃王朝が初めて外來の醫(yī)薬の知識(shí)を大規(guī)模に受け入れたことでもあり、チベット醫(yī)學(xué)を形成し、発展させるうえで深遠(yuǎn)な影響を及ぼすものであった。

 八世紀(jì)には、金成公主がまた、多くの醫(yī)薬関係者を従え、醫(yī)學(xué)書籍を攜えてチベットに入った。その中の一部の著作はチベット語に翻訳された。例えば、現(xiàn)存する一番早い時(shí)期のチベット醫(yī)學(xué)の著作『月王薬診』がそれである。チスムデツァン(赤松徳賛)の時(shí)期は吐蕃王朝の最盛期であり、仏教が大いに発揚(yáng)されると同時(shí)に、チベット醫(yī)薬學(xué)も未曽有の発展を遂げ、九大名醫(yī)が現(xiàn)れた。そのうち、ユィトゥ?ユンタンゴンポ(玉妥?元丹貢布)が最も有名であった。この人は民間醫(yī)薬についての経験をまとめ、優(yōu)れた醫(yī)學(xué)の文化を吸収した上で、十年をかけて、後世まで伝わるチベット醫(yī)學(xué)の名著『四部醫(yī)典』を書き上げた。これはチベット醫(yī)學(xué)のユニークな體系の確立を示すものであった。

 十四世紀(jì)になると、チベット南北地區(qū)の気候の違いによって、全然異なった治療法を使うスゥカ(蘇か)派とチャムバ(強(qiáng)巴)派が生まれ、チベット醫(yī)薬の理論を発展させた。この時(shí)期にはまた、多くの優(yōu)れた醫(yī)學(xué)書と『四部醫(yī)典』の注釈も出版された。

 チベット醫(yī)學(xué)の理論には「三つの要因」という説がある。つまり、人體の生理的機(jī)能を気?風(fēng)、火、粘液という三大要素に要約しているのである。チベット醫(yī)學(xué)によれば、この三つの要素の機(jī)能が人體の中でバランスが取れていれば、人間は健康な狀況にあるが、逆の場(chǎng)合、いろいろな病気にかかりやすくなる。そのほか、人體は飲食、血、肉、脂、骨、髄、精という七種類の物質(zhì)から構(gòu)成されるもので、人間と自然界は密接な関係にあるため、さまざまな生理的機(jī)能は自然界の変化によって変わるという。


 チベット醫(yī)學(xué)の診斷法では、望(見ること)、聞(聞くこと)、切(脈を取ること)および尿診察(小便を見て判斷すること)という方法が取られている。チベット醫(yī)學(xué)の治療法には主に食事療法、日常生活療法、薬物療法、および手術(shù)、薬草風(fēng)呂を含む外部治療法などの4種類のものが含まれている。

 チベット醫(yī)學(xué)はオリエント文化を基礎(chǔ)とし、物事の総合性と全體性を重んじる。 チベット醫(yī)の目からすれば、人體の五臓六腑は孤立した存在ではなくて、経絡(luò)を通じてその他の器官とつながり、人體の有機(jī)的な全體を構(gòu)成するものである。そのため、チベット醫(yī)は治療法においては、人體の全體を調(diào)節(jié)すると同時(shí)に、心理の治療と保健の重視をより強(qiáng)調(diào)している。

 チベット醫(yī)薬の発展にはかつて輝しい歴史があった。しかし、西洋の醫(yī)學(xué)技術(shù)が急速に発展をとげた近代においては、封建的な農(nóng)奴制度のもとに置かれていたため、チベット醫(yī)薬事業(yè)の発展はきわめて緩慢であった。20世紀(jì)の前半、チベットには設(shè)備がきわめてお粗末な官立の醫(yī)療機(jī)構(gòu)が3カ所しかなかった。1951年の平和解放以前、ラサ薬王山チベット醫(yī)暦算學(xué)院には醫(yī)者と學(xué)生がわずか73人しかおらず、面積367平方メートルの診察部を利用する患者の數(shù)は年間延べ10000人しかなかった。少數(shù)の個(gè)人診療所と農(nóng)業(yè)?牧畜地區(qū)の民間のチベット醫(yī)の醫(yī)者を加えても、醫(yī)療関係者は500人に満たなかった。つまり、10000人あたり醫(yī)者が4人足らずであった。

 新中國の建國以來、特に1959年の民主改革以來、チベット醫(yī)薬は各クラスの政府から重視され、支持されて、醫(yī)療、授業(yè)、科學(xué)研究などの各方面で著しい進(jìn)展を遂げた?,F(xiàn)在、自治區(qū)全域をカバーするチベット醫(yī)薬の醫(yī)療?保健?サービス網(wǎng)がすでに出來上がっている。1998年現(xiàn)在、全國でチベット醫(yī)の病院が57カ所、病院ベッド數(shù)が1488床、チベット醫(yī)薬の研究所が17カ所、チベット醫(yī)薬に従事する関係者が3000余人、チベット薬生産企業(yè)が30余社にのぼっている。

 近代的な醫(yī)學(xué)の技術(shù)が目覚ましく発展している今日、伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)の將來性はどうなっているかは、人々が広く関心を持っている問題である。チベット自治區(qū)チベット醫(yī)病院のズァンドイ院長は、「近代的な醫(yī)學(xué)と伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)はかなり長い間共存の狀態(tài)となろう。その上、醫(yī)學(xué)の用途はさらに拡大していくだろう」と考え、また、ここ數(shù)年來、世界では「自然への回帰」の流れが現(xiàn)れ、伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)と天然薬物の治療法に対する需要が日増しに増え、伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)としてのチベット醫(yī)薬も、その疾病に対する獨(dú)特な見方と治療効果によって、世界で幅広く関心が持たれるようになった、と述べ、さらに次のように語った。

 チベット醫(yī)薬には獨(dú)自の優(yōu)位があり、特に高山病や難病の治療にとってなおさらである。同病院は胃潰瘍、児童過敏性紫斑などいくつかの難病に対して、西洋醫(yī)とチベット醫(yī)の比較治療を行ったことがある。その結(jié)果、チベット醫(yī)の治療効果は明らかに西洋醫(yī)より優(yōu)れていることが分かった?,F(xiàn)在、この病院はガン、糖尿病などの病気の治療と研究に取り組んでいる。これから醫(yī)療の新たな研究成果がさらに多く現(xiàn)れるだろう。いかなる伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)も生存、発展していくには、時(shí)代に適応し、絶えず改良と革新を行い、病気の予防、治療のレベルを向上させなければならない。

 チベット薬を例に取ってみよう。長い間、チベット薬は病気の予防、治療で重要な役割を果たしてきた。しかし、投薬するやり方が単一であるため、治療効果が現(xiàn)れるのは相対的に遅い。そのため、急病の治療にとってまだかなりの困難がある。ズァンドイ院長はこの問題について次のように語った。急病の治療に効き目のあるチベット薬の開発と研究に力を入れなければならない。この問題が解決されなければ、チベット醫(yī)の普及は制約を受けることになろう。チベット薬の形も改良しなければならない。チベット薬と漢方薬の違いは、チベットの特殊な地理的環(huán)境によって決まったもので、調(diào)合済みの薬が主である。伝統(tǒng)的なチベット薬は、粒が大きくて固いから、服用しにくい。ここ數(shù)年、チベット醫(yī)病院チベット薬製造工場(chǎng)は新しい生産ラインを作り、4種類のチベット薬に改良を加えて、カプセル、粉薬、飲み薬を開発した。これらの薬は市場(chǎng)に出回ると、すばらしい収益を収めた。

 チベット薬は純度が高く、天然の植物、動(dòng)物、鉱物を原料として製造されたもので、治療効果がよく、副作用が小さいから、ここ數(shù)年來、國內(nèi)外の患者に愛用されている。チベット、青海、甘粛、四川、雲(yún)南などでは、チベット薬の生産が急速に発展している。しかし、青海?チベット高原は地域が広くて、薬物の資源が豊富だから、盡きることはないという言い方もあるが、果たしてそうだろうか。

 青海?チベット高原の薬用植物に対する大規(guī)模な採集は、すでにチベット薬専門家と環(huán)境保全學(xué)者の関心を呼び起こしている。

 チベット自治區(qū)生物研究所の調(diào)査によると、青海?チベット高原にはチベット薬用植物が2896種、薬用動(dòng)物が159種、薬用鉱物が70余種ある。青海?チベット高原の複雑な自然環(huán)境により、種の分布はアンバランスとなっている。東部と東南部のチベット薬用種の數(shù)量と埋蔵量は比較的豊かであるが、中部から西部にかけての地域の種の數(shù)量と埋蔵量は生産の必要をまだまだ満たすことができない。紅景天を例にあげると、自治區(qū)全域の年間採集量は約10000トンであるが、紅景天を主要な原料として薬品と保健食品を生産する企業(yè)6社の年間需要量は2000トン以上である。しかし、紅景天の自然成長期は普通7~8年だから、いまの採集量でいけば、5年も経たないうちに、紅景天は次第に消え失せて行くだろう。

 ここ數(shù)年、內(nèi)蒙古、甘粛などの地區(qū)では、薬用植物の極端な採集がすでに現(xiàn)地の植生にひどい破壊をもたらし、大面積の土地の砂漠化を招いた。関係専門家は、生態(tài)環(huán)境がもともと弱いチベットにとって、チベット薬を開発するには環(huán)境を破壊するようないつか來た道を決して歩むべきではない、と指摘した。また、チベット薬の開発は國の環(huán)境保全についての統(tǒng)一的な計(jì)畫に組み入れられるべきで、自然保護(hù)區(qū)では伐採や放牧の禁止と結(jié)びつけて、薬用植物の栽培を行い、輪作の方法をとるべきだ、と提案する専門家もいる

 ズァンドイ院長は「チベット薬の持続可能な発展を保証するため、私たちはチベット薬栽培基地を設(shè)置する考えである」と語った。


小資料:


?ユィトゥ?ユンタンゴンポ(玉妥?元丹貢布)
 ユィトゥ?ユンタンゴンポ(708~833)は、『四部醫(yī)典』の編纂者、吐蕃王朝の頃の最も傑出した醫(yī)學(xué)者として、チベット王の侍醫(yī)を務(wù)めたことがあり、チベット醫(yī)學(xué)の理論體系の創(chuàng)立者でもある。若い頃、民間醫(yī)の処方を探し出して、研究するため、チベット各地をくまなく歩き回り、また何度も內(nèi)陸部の山西省?五臺(tái)山とインド、ネパールなどを訪れ、國內(nèi)外の名醫(yī)に師事し、著名な漢方醫(yī)學(xué)者の韓文山およびインド、ネパール、カシミールの名醫(yī)をチベットに招請(qǐng)して學(xué)術(shù)の研究、討論を行った。そして國內(nèi)外の醫(yī)學(xué)の成果と結(jié)び付けて、30余冊(cè)の醫(yī)學(xué)論著を編纂し、チベット醫(yī)學(xué)の系統(tǒng)的な體系を作り上げた。その醫(yī)學(xué)の成果によって、チベット醫(yī)の聖人として奉られている。


 『四部醫(yī)典』
 『四部醫(yī)典』は4冊(cè)、156篇からなり、ユィトゥ?ユンタンゴンポが8世紀(jì)に書き上げたもの。同書はチベット醫(yī)學(xué)理論の重要な著作であり、內(nèi)容が豊富で、さまざまな疾病の分類、人體の解剖、生理、病理、診斷、治療、薬物の調(diào)合、調(diào)製法、使用法などに及ぶものである。チベット醫(yī)學(xué)の中でのその地位は、『黃帝內(nèi)経』が漢方醫(yī)における地位に相當(dāng)し、今でもチベット醫(yī)學(xué)界で広く使われている。チベット醫(yī)學(xué)の伝統(tǒng)では、チベット醫(yī)を?qū)煿イ工肴摔悉工伽啤ⅳ长巍核牟酷t(yī)典』を暗唱できなければならないことになっている。


 『四部醫(yī)典シリーズ掛け図』
 『四部醫(yī)典』が広く伝えられるようになってから、絵を使って授業(yè)を行う醫(yī)者も現(xiàn)れた。17世紀(jì)、デス?サンギャム(第司?桑嘉)は自ら主宰して、全チベット地區(qū)の有名な醫(yī)學(xué)者と畫家を集めて、1688年に60枚の『四部醫(yī)典シリーズ掛け図』を描き上げ、後に80枚まで追加した?!核牟酷t(yī)典シリーズ掛け図』はカラーの図の形で、『四部醫(yī)典』の各編の論述と結(jié)びつけて、チベット醫(yī)の基本理論や、人體の解剖の構(gòu)造と生理の機(jī)能、疾病の原因、病理と病狀、疾病の診斷方法と治療の原則、薬物の種類、性質(zhì)、味とその使用法、および飲食、日常生活と衛(wèi)生?保健の知識(shí)、醫(yī)者としてのモラルと規(guī)則などの內(nèi)容を描いたものである。掛け図の編纂は『四部醫(yī)典』を読みやすくするためであるという?! ?br/>                                     『北京週報(bào)』2000年第35號(hào)

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