だが、ここからわかるように日本人はドラマの內外で言葉や動作の表現があまり変わらない。たとえば日本の家庭で奧さん同志が知力や膽力を駆使して「交戦」するとき、互いの小競り合いが激しくなるにつれ、ぺこぺこ相手にへつらった態度を取って陰で戦うようになるのもドラマと変わらない。「慇懃無禮」な態度で「人を責めない」が、禮が過度に過ぎると自然とこれが虛禮だとわかるものだ。
一般的な日本人はまじめで、中國や西洋の文化を自分の「日本風」文化にアレンジしたので、日本人はさまざまな形式で自らの行為を拘束するようになった。これは日本人が交際や家庭の中で小さなときから育成されるもので、ほとんどの時間が決まった形式の言葉やしぐさによる演技で費やされる。長く演じていると自然ときまった行動形式になる。
人形劇は東洋にも西洋にもあるが、日本人はこれを「人形使い」と呼ぶ。中國の人形劇は西洋と似ており、一般的にリアルを追及し人形を操作する人は舞臺の下に隠れ、人形に生命が宿っているような演技をすることが人形を操る人の高い技巧とされている。だが、日本人はそうではない。操る人間と人形の全身がともに舞臺に上がる。見ているとめちゃくちゃに感じて美観を損なうように思うが、まさにこの表現こそが日本人の人の前での表現欲を現しているのだ。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2013年2月24日