北京五輪は史上、観客數(shù)が最多な五輪、また冷戦終結(jié)後で最も重要な五輪だと思われる。もしかすれば、北京五輪により五輪運(yùn)動(dòng)は新たな歴史的段階を迎えるかも知れない。
開(kāi)幕したばかりの時(shí)に今回の五輪の歴史的地位を評(píng)価するのは時(shí)期尚早のようでもある。だが、五輪の意義は大半が試合そのものにあるのでなく、時(shí)勢(shì)によってつくり出されるものだ。したがって、歴史の大勢(shì)によれば、現(xiàn)時(shí)點(diǎn)で今回の五輪の意義を評(píng)価しても決して筋の通らないことではない。
私は現(xiàn)代五輪運(yùn)動(dòng)をおおむね三つの段階に分けている。第一段階は紳士の時(shí)代、第二段階は政治の時(shí)代、第三段階は模糊として定かでなく、おおかた商業(yè)時(shí)代と呼んでもいいだろうが、一つの過(guò)度期であると言った方がいいかも知れない。第三段階の真のスタートは、恐らく北京五輪が起點(diǎn)になるだろう。それはまさにグローバル化の時(shí)代である。
現(xiàn)代五輪運(yùn)動(dòng)の一つの重要な基礎(chǔ)となるのは、やはり西洋の歴史の長(zhǎng)い紳士の伝統(tǒng)である。西洋の上流社會(huì)での子弟の教育は古來(lái)、中國(guó)とは異なる。中國(guó)では、孔子に武術(shù)を習(xí)わせることは聖賢を侮辱することとされた。一方、西洋ではソクラテスが優(yōu)れた勇敢な戦士である。西洋貴族の尚武の精神は途絶えたことはない。當(dāng)時(shí)、ワーテルローでナポレオンに戦勝した後、英國(guó)貴族は「この戦いは、まさにイートンカレッジのグランドで試合をする子どもたちが打ち勝ったものだ」と誇り高く語(yǔ)った。19世紀(jì)後半には、古代ギリシャ文化が西洋で徐々に流行していく。ジョージ?グロートの『ギリシャの歴史』やプルタルコスの『英雄伝』は、教養(yǎng)階層の必読であるばかりでなく、彼らが人格を養(yǎng)う手本でもあり、誰(shuí)もがギリシャの英雄を真似るのに力を惜しまなかった。スポーツを教育の基本とするギリシャ文化は自然、西洋スポーツの発展を促した。クーベルタンが創(chuàng)立した現(xiàn)代五輪運(yùn)動(dòng)に、こうした尚武の精神はなかった、古代ギリシャ文化の西洋での復(fù)興はなかった、とは想像し難い。だからこそ、第一の時(shí)代の五輪運(yùn)動(dòng)は、いずれもアマを宗旨としていた。スポーツをするのは、完ぺきな人間になるためであって、プロの選手になるためではなかったのだ。
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