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李肇星報道官の姿:
全人代の記者會見 李肇星報道官が初登場
略歴
1940年10月生まれ。山東省出身。64年に北京大スペイン語學部卒
03年-07年4月:外交部部長
08年3月- 第11期全人代外事委員會主任委員、第16期中國共産黨中央委員會委員、第11期全人代常務委員會委員、中國人民外交學會名譽會長
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凡人でもある李肇星氏
農民の子
幼いころから辛酸をなめつくした母の手で育てられことで、母への愛はことのほか深く執著がある。母親は6人の子どもを産んだが、健在するのは3人。北京大で學んでいる間、母親がこの大切な子どもを気にかけなかったことは一時もない。ある年、同郷の人が北京に行くというので、母親は地元のネギを屆けてくれるよう頼んだ。母からの土産を手にすると感動して涙を流し、太く、根の白く葉の緑のネギを握りしめて、興奮気味に同級生に言った。これは母が遠くから屆けてくれたものだ、と…
外交部では、この農民出身の部長は誰にでも気安く接し、「外交は民のために」と提唱していることでよく知られる。外交部長であっても尊大なところはなく、普通の庶民との交流に熱心だ。こうした姿勢が多くの人に好感されている…
大學受験では、一心に憧れていた中國文學學部に入學するとの願いはかなわず、“意外”にも第2志望の北京大學スペイン語學部に合格、それが今日のプロの外交家の道へとつながった。その結果について、彼の高校の教師も大學の同級生も、いずれも「とても意外だ」と話す。文學の仕事に従事することこそが彼にとって最も可能性のある選択だ、と見ていたのだろう…
夫人の秦小梅は北京大時代のクラスメート。父親の秦力真は著名な外交家。ノルウェーやザンビア、スウェーデン、ニュージーランド大使、外交部領事司司長を歴任した。秦力真は文筆の上達した人を好んでいたことから、自ら劉少奇の秘書になったことがあるという。外交家という名門出身の秦小梅の眼に李肇星は、家事はできなくとも、むしろ良い夫に映った。外交官の夫と南北を駆けめぐるなか、彼らは常に「互いに勵まし合い、互いに助け合った」。外交部では、部長と夫人が手をつないで散歩する姿がかつて美談として伝わったことがある…
???? 語録
? 李肇星は弁舌の才がある外交官であり、外交部報道官に就いてからは、常に內外記者の様々な追及するかのような問題に答え、たびたび機知に富んだ言葉を連発した。
例1:2005年3月に開催された両大會で、ドイツの記者が、中國は「國家分裂防止法」を制定することで、EU(歐州連合)に対し対中武器禁輸を解除するかどうかを牽制しているのでは、と質問した。これに対し「考えすぎだと思う」。そう「先手を打った」上で、「中國は発展途上國であり、我々には必要ないし、実際に、あれほど値段が高く、我々にとって役に立たない武器を購入する金はない」と語った…
その他
?????????? 李肇星への評価(香港のベテラン記者?陳建平氏)
●170人以上の海外の北京駐在記者を前に、彼はいつものように人を理解させ、受け入れさせるといったイメージで登場し、ともに友人であるかの風だった。
●駐米大使に就任した際、喜びと苦しみは最高潮に達した。李肇星は大使在任中、最も満足したのは両國の元首が頻繁に接觸し、中米が恒久かつ正常な貿易パートナーになることで合意したこと、最も苦しい日々はNATOが在元ユーゴスラビア中國大使館を爆撃したことだと考えていた。米メディアは爆撃に関して李大使を「強硬派」だと稱し、ある米紙は當時の李大使の表情を「極めて悲しみと憤りに満ちていた」と形容した。
●01年1月29日、駐米大使任期最後の日。ワシントン市長はこの日を、駐米大使3年來の卓越した貢獻を表彰しようと、「李肇星デー」にすることを宣言した。
? 「チャイナネット」 2009年2月19日
· 趙啓正?政協第11期全國委員會第2回會議報道官