かつて、日本社會黨の淺沼稲次郎書記長は日本の政界で重要な地位を占めていた。若い時に鉱山労働者労働組合に參加し、戦後、社會黨を結(jié)成し、書記長、委員長を務(wù)めた政治家で、?人間機関車?と呼ばれ、首相の候補者と見られていた。
1959年3月、中國人民外交學(xué)會の招きに応じ、淺沼氏は日本社會黨代表団を率いて、中國を訪問した。毛沢東主席の詩歌が好きで、特に?長城に來なければ、立派な男とはいえない?という言葉に深い印象を持っていたので、北京に到著して間もなく、淺沼さんは八達(dá)嶺長城を登った。
雄大な長城に直面して、?左の道と右の道、どっちが険しいですか?、と彼は隣にいた記者に聞いた。?左の道です?と言う答えを聞くと、?私たちは左翼ですから、もちろん左の道を選びます?と答えた。全體の4分の1のところまで到著した時には、淺沼氏は玉のような汗をかいていた。また、革靴を履いていたので、歩行がより困難だった。そこで、淺沼さんは靴と靴下を脫ぎ、裸足で頂上に向かって登った。
翌日、毛沢東主席は中南海で淺沼氏一行と會見した。周恩來総理、廖承志氏、雷任民氏及び喬冠華氏も出席した。毛沢東主席は席に著くと、?長城はあんなに高いにもかかわらず、淺沼さんが裸足で頂上に登ったことに感服します?、とユーモラスに言った。會談の雰囲気がすぐ和らいだ。
毛主席は淺沼さんと日本社會黨を高く評価し、日本社會黨とヨーロッパの社會黨を比べると、日本社會黨がアメリカ帝國主義に反対していることが、ヨーロッパの社會黨との根本的な違いだ、と語った。會見が終わった後、淺沼さんはこの會見について満足していると語った。
1960年、岸信介內(nèi)閣は改めてアメリカ政府と?日米安保條約?に調(diào)印し、中國の臺灣省を條約の適用範(fàn)囲に取り入れた。日本の人々は反?日米安保條約?のデモを行い、?人間機関車?の淺沼さんは、日本の労働者や學(xué)生數(shù)百萬人を率いて、この運動に參加した。
「チャイナネット」2007年9月30日
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