インド館の庭では野外舞踴公演が行われていた。肌が黒く、濃い化粧をし、サリーを身に纏った美しい女性たちは顔が似通っており、舞う姿にも大きな違いはないように見えた。壁にかけられた寫真や説明を見て初めて、私たちが「インド舞踴」と一言でまとめてしまう舞踴に実は多くの流派があり、北インドのマニプリから南インドのバラタナティアムまで、衣裝も舞う姿も違うことを知った。いっしょくたにすることは全くできないとインド人は言う。
インド館の中では立體投影技術で都市の進化史を映し出していた。現代的なビルが林立し、伝統的雰囲気の全く感じられない光景が、私たちの見慣れたタージマハル、ムンバイ、ニューデリーといったインドのシンボル的な影像と重なり合う。上映後、何人からのお年寄りから「これがインド?そうは見えないけれど」との聲が上がった。するとインド館の職員が決して流暢ではない中國語で「いえいえ、これもインドなのです」と答えた。
モスクのようなイラン館に入った私は、気が気でなかった。華麗な衣裝を身に纏ったイスラム教徒の少女2人を目にしたのだ。私の限られた知識では、彼女たちはベールで顔を覆わなければならず、見知らぬ人とは話をしないはずだ。さらに思いがけないことに、來館者が誘いさえすれば、この美しい女の子たちははにかんだ笑顔を浮かべ、気軽に記念撮影に応じていた。2階では有名なペルシャ絨毯が展示されていた。西側の油絵を基にした作品もあり、まるで中國の蘇州刺繍と同工異曲、異路同帰の妙があった。
同じくイスラム世界のサウジアラビア館は、人気パビリオンの1つだ。巨大な映像作品を前にして、「石油國は本當に金持ちだ」ということしか見ず、イスラムの教義に基づいた異なる都市の伝統や世界観を見なかったのだとしたら、本當に殘念なことだ。
庶民である私たちの大半は、世界を周遊する機會がない。萬博のような場で、私たちの世界にまっすぐに歩み寄り、ふるいにかけられた単一の情報ではなく、異文化の雑然とした直接的な姿を吸収してみて初めて、世界に対する自分たちの認識にまだ多くの死角があったこと、一面的な情報のために偏った先入観を持っており、それを自覚できなかったことに、はっと気づかされるのかも知れない。たとえば、西側と言及するとすぐ「先進的」「現代的」「民主」に関連づけてしまうし、アフリカについて話すと、そこにも賑やかで新しい都市や最新のインタラクティブ技術があることを往々にして忘れてしまう。それぞれの國、それぞれの文化には、いずれも豊かな內容があるという事実を、私たちは見落しがちだ。豊富で、複雑で、多様であるからこそ、世界は生き生きとして美しい。
狹隘や固陋は往々にして、愚昧で尊大なメンタリティーを増長させる最良の土壌となる。萬博のような機會を利用して「出國せずに広く世界を見」、私たちの心の中の世界像を次第に修正すれば、盲目的、一方的、単純に西洋化を唯一の現代化モデルと見なすことはなくなる。異なる風景を発見し、理解し、楽しむことを次第に學び、世界の様々な文化の獨自性を受け入れ、その長所を吸収してこそ、真の現代化と進歩が可能になるのだ。
「人民網日本語版」2010年5月7日