文=清華大學(xué)現(xiàn)代國(guó)際関係研究院副院長(zhǎng) 劉江永
中國(guó)の清末期以降、中日間で琉球問(wèn)題、日本の臺(tái)灣侵略問(wèn)題などが議論になると、米國(guó)がいつも介入してきた。チャールズ?ウィリアム?ルジャンドル駐廈門(mén)領(lǐng)事はかつて日本の臺(tái)灣侵略と琉球併呑に直接介入した。
1871年、日本の明治政府は琉球國(guó)を外務(wù)省管轄の「琉球藩」とし、琉球に清との朝貢関係を斷絶するよう求めた。その翌年、尚泰琉球國(guó)王が藩王に封じられた。
そんな中、1871年に琉球の八重山諸島の島民69人が臺(tái)灣に漂著し、うち54人が高山族(臺(tái)灣の原住民)に殺害された。當(dāng)時(shí)の清政府は高山族を、漢化が進(jìn)んだ「熟番」と山奧に住み、教化の及ばない「生番」とに區(qū)分していた。清政府の官僚は日本側(cè)に、「加害者は皆生番の原住民で、化外の民(國(guó)家統(tǒng)治の及ばない者)」と説明。この説明を日本側(cè)が誇大解釈して、臺(tái)灣全土を「化外の地」と摩り替えてしまった。そこで大久保利通、大隈重信両參議院議員が、「臺(tái)灣土蕃の部落は清國(guó)政府政権が及ばない、無(wú)主の地と見(jiàn)なすべき。我藩屬たる琉球人民の殺害せられしを報(bào)復(fù)すべきは日本帝國(guó)政府の義務(wù)にして云々」と主張する「臺(tái)灣蕃地処分要略」を連名にて提出した。
米國(guó)は當(dāng)時(shí)、日本に臺(tái)灣占領(lǐng)政策をそそのかし、手を貸していた。デ?ロング駐日公使は、臺(tái)灣は「無(wú)主の地」に等しいとし、日本側(cè)にルジャンドル駐廈門(mén)領(lǐng)事を顧問(wèn)として推挙した。ルジャンドルはフランス生まれの貴族で、のちに米國(guó)籍の女性と結(jié)婚し米國(guó)に渡る。南北戦爭(zhēng)中、北軍に加わり、陸軍少將となる。1866年、駐廈門(mén)領(lǐng)事兼臺(tái)灣領(lǐng)事に任命。1867~1872年の間に度々、米軍艦に同行して臺(tái)灣に行き、「臺(tái)灣通」になる。1872年、日本の外務(wù)省に招聘後、臺(tái)灣と澎湖列島は東アジア戦略の要地であるため、日本は占領(lǐng)するべきだと何度も強(qiáng)調(diào)。武力を行使する前に、八重山諸島島民の殺害事件を持ち出し、清政府の臺(tái)灣に対する主権が及ばないことを証明するよう口添えした。1874年4月、西郷従道中將率いる遠(yuǎn)征軍の臺(tái)灣出兵の際も、ルジャンドルが軍に付き添って道案內(nèi)をし、米軍艦も日本軍の応援に駆けつけた。
ルジャンドルが日本政府に提出した「臺(tái)灣攻め計(jì)畫(huà)書(shū)」には、「臺(tái)灣平定後、清政府は必ず日本の臺(tái)灣占領(lǐng)を否定する。そのため、第一陣の兵士8千人のほかに、さらに4千人を澎湖諸島に送る必要がある。その兵が廈門(mén)(アモイ)に入り、そこを占領(lǐng)して清政府を押さえつければ、平和を回復(fù)し、出兵にかかった費(fèi)用を得ることができる」といった?jī)?nèi)容が記されている。
清政府はこれに対して、臺(tái)灣は中國(guó)に屬すると抗議を唱え、日本軍の撤退を求めた。日本軍は臺(tái)灣の高山族の抵抗に遭い、また感染病が流行して死傷者を多く出し、清政府との交渉を余儀なくされる。清政府は不平ながら琉球を手放し、臺(tái)灣を守った。1874年10月、「中日北京専約」が締結(jié)。1875年7月、日本政府は琉球藩王に清への朝貢取り止めを命じる。1879年1月、尚泰琉球藩王に1週間以內(nèi)に日本國(guó)憲法への遵奉を誓わせる。同年4月、琉球が沖縄に改名された。
?中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)? 2011年5月3日