人類の発展の歴史、特に2度にわたる世界大戦を振り返ると、われわれは戦爭の殘酷さをこれ以上ないほど深く感じ、平和が貴重なものであることをなおさらに理解する。だが、平和への道は決して全ての人が好み、大切にするものではない。この道はますます起伏が生じ、歩きにくくなっている。日本はアジアの人々の平和への思いを顧みず、絶えず動きを起こしている。これは実は邪心を捨てていないことの表れだ。(文:金珍鎬?韓國檀國大學教授、馬菲?人民日報駐韓記者がインタビューし、整理)
19世紀、閉鎖的で立ち後れていたアジア諸國は西洋列強の強大な軍事力による進攻を前にひとたまりもなく、徐々に植民地や半植民地に成り果てた。日本は明治維新後急速に臺頭し、帝國主義列強の仲間入りをし、血に飢えた拡張を行った。
中日甲午戦爭(日清戦爭)後、日本は朝鮮半島の植民地化を加速。朝鮮王朝に一連の不平等條約の締結を強制した後、1910年8月22日に日韓併合條約を締結して正式に朝鮮半島を併呑し、30數年の長きにわたる植民地支配を開始した。日本は中國にも目を向け、「大陸政策」の全面的推進を企てた。盧溝橋事件後、日本の対中全面侵略戦爭が勃発した。この戦爭は全過程を通して血腥く、殘虐非道なものであり、數え切れないほどの人々が日本軍の刀と砲火の下に倒れた。731細菌部隊、南京大虐殺、慰安婦といった中國侵略時の日本軍の犯罪行為は、いずれも消し去ることのできない事実であり、歴史の審判を受けるのが當然だ。
日本の侵略に抵抗し、反撃を加える過程で、無數の志士が命を捨て、熱血を注いで愛國?救國運動に參加した。私は2人の壯士の名を深く銘記している。安重根と楊靖宇だ。安重根という名に馴染みがない人もいるかもしれないが、日本初の內閣総理大臣、伊藤博文なら誰もが知っているはずだ。伊藤博文は日本側を代表して清政府と馬関條約(下関條約)を締結し、1909年にハルビン駅で「義士」安重根に暗殺された??谷沼⑿?楊靖宇の事績は人々に賛美され続けており、中國の學校の教科書に広く見られるだけでなく、多くの文學、映畫、テレビ作品によって稱賛されている。