戦後の日本に、あの侵略の歴史についての反省がまったくないわけではない。しかし、反省の聲が過ちを認(rèn)めない叫びを圧倒することは永遠(yuǎn)にないだろう。この叫びは冷戦時代の反共の聲と往々にして重なり、一緒になってかき亂し、物事をより複雑にした。日本政府の戦爭に対する態(tài)度も曖昧なものである。
一方、被害者である中國人の批判や反省も、冷戦の影響を受けて、ひどく紋切型?功利的なものとなり、相手を納得させることは難しい。當(dāng)然、これによって憎しみを解かし、歴史の正視を促すことはもっと難しい。したがって、改革?開放で中日が再び大々的な接觸を始めてから、両國の國民関係は、経済の結(jié)びつきによって物質(zhì)至上主義となるか、再び仇とみなすかのどちらかになっている。反日と親日はコインの裏表のようなものなのである。
『葉問』のスケッチ寫真
劇場のナショナリズムは、反日の一面を具體的に表したものである。このような想像の中日対戦をスクリーン上で何度も目にすると、日本のサッカーチームの試合を見たときに、何の罪もない日本人選手たちを當(dāng)時の日本の軍人とみなして、やたらに罵倒したり、極端な行動に出てしまうのは當(dāng)然のことだろう。中國人の中には、韓國人が歴史ドラマの中で自國を誇張して描くことに納得できない人がいるが、私たちの想像の中日対戦も、韓國ドラマが中國の唐の太宗について妄想しているのとそう変わらないのである。
?チャイナネット?2009年1月23日
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