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日本が西洋醫學を受容、漢方と決別
発信時間: 2009-12-21 | チャイナネット

広岡 純=文

異民族でも中華文化が身につく

こんなことを言うと、日本人も中國人も「えっ?」と言うかも知れないが、「文化」という言葉は、19世紀末に日本から中國に渡った言葉である。つまり、日本人がつくった言葉である。古代中國語にも「文化」という文字はあったが、意味は「文をもって教化すること」で、現代使われている「カルチャー」という意味ではない。

さて、「中華文化」とはいつごろ、誰によってつくられたのか。



三星堆遺跡の人頭像。殷の時代の長江文明の1つとされるが、中華文明起源の多元性を証明する

堯?舜?禹という伝説時代から、約4000年前の歴史時代に入った夏?殷(商)?周に中華文化が形成されたといわれる。

普通に考えれば、中華文化は漢民族によってつくられたと誰しもが思うが、実は必ずしもそうではない。農文協の『図説 中國文化百華』シリーズ『「天下」を目指して』の著者王柯教授は、中華文化の創始者は異民族だったという。

「禮」が萌芽し制度化した時代である夏?殷?周は、いずれも統治者は漢民族ではなく異民族出身者である。その後春秋?戦國時代を経て、秦?漢?三國?晉?五胡十六國?南北朝?隋?唐?五代十國?宋?遼?金?元?明?清という中國の歴史上の皇帝の中で、れっきとした漢民族出身の皇帝は漢?唐?宋?明ぐらいで、その他のほとんどは異民族出身である。

夏?殷?周について孟子は「舜は東夷の人である」と主張し、司馬遷も「禹が西羌地域から興った」と指摘している。また、「商人は中原に侵入し夏族の人民を奴隷のように扱った」とあり、孟子は「(周の開國者)文王は、…西夷の人なり」と指摘している。周はもとは中國以西か北西にいた遊牧部族で、渭水の流域に移り住んで定著し農業をするようになった。周は後に「商」に代わって「中華」の支配者になる。

孔子も荀子も孟子も、「夷狄に暮らせば、夷狄の慣習に基づいて行動する」「楚に居て楚であり、越に居て越であり、夏に居て夏である。これは天性にあらざるものであり、長い間の慣習によるものである」「陳良は楚の生まれである。周公?仲尼の道を悅び、北に來て中國に學んだ」と、いずれも人間の生活慣習と文化様式は先天的なものではなく、後天的な學習を通じて「華」になる、つまり異民族でも中華文化が身につくと考えていたという。

異民族の侵入に備えた「萬里の長城」

北京に行ったことのある人は、ほとんど萬里の長城を見る。北京で見る長城は、全體のほんの一部である。東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8851.8キロメートルといわれる。萬里の長城は異民族に備えるだけではなく戦國七雄の國境間にもつくられていた。始皇帝は中國を統一した後に中國の領域內にある長城を取り壊し、北につくられた長城をつなげたが、その東端は朝鮮半島にまで及んだ。前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張し、長城を西の玉門関まで拡張した。その後の五胡十六國時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築いた。漢族の王朝である明はモンゴル人の王朝(元)を北方へ追放し、元の再來に備えて長城を強化して、ようやく現在の形になったのである。一般に秦の始皇帝が長城をつくったとされているが、現存している「萬里の長城」の大部分は明代につくられたものである。ところが実際は明も、この長城を破られて、満州族を城內に入れ、清の成立を許すことになる。

夏殷周代の文化圏(王柯著『「天下」を目指して』より)

長城は天下を取った皇帝が異民族に備えてつくった、異民族との攻防の歴史の遺物でもある。

異民族出身の皇帝は中原に帝國を建て中華文化を身につけていくが、彼らの固有の文化も當然のことながら中華文化と融合する。大陸そのものが常に新しい文化の大きなルツボとなり中華文化を熟成させていった。

日本が欲した中國の醫術と薬材

中國の伝統醫學も中國に多くの民族がいるのと同様、キリシヤ醫學、インド醫學、アラブ醫學、ひいてはヨーロッパ伝統醫學など世界各地の醫學との交流を通じて、徐々に変化してきた。ただ、「中醫學」は明らかにアラブ醫學やヨーロッパ醫學とは異なっている。

伝統醫學では天然物を薬にするので、その地の自然環境が伝統醫學の質を大きく左右する。あるオランダ醫師が、中國は「南北20余度に跨り、自然生の良薬多くして、精錬の巧を用いずして、病を療する事を得べし」と言い、中國産生薬を賞賛したという。裏を返せば「ヨーロッパの自生の生薬は貧困であるため、精錬の巧を経なければ使えないものが多い」ということでもある。ヨーロッパは、抽出?分離?蒸留などの「精錬の巧」を駆使しながら、有効利用する方向に進む。それがやがてヨーロッパに近代科學を生む原動力になっていく。

中國の伝統醫學の特徴は西洋醫學と大きく異なって體全體をみることにあり、主に體質をあらわす「証」という概念を持っている。體全體の調子を整えることで結果的に病気を治していく。このため、癥狀だけを見るのではなく體質を診斷し、重んじる。西洋醫學が解剖學的見地に立ち、臓器や組織に病気の原因を求めるのとは対照的である。漢方薬はこの「証」にもとづいて患者一人ひとりの體質を見ながら調合される。

日本は多民族によって熟成したその中華文化を遣唐使や渡來僧や留學僧によって伝えられ、持ち帰ったのである。

中國の伝統醫學は日本がもっとも欲した文化の一つであった。

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