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日本が西洋醫(yī)學(xué)を受容、漢方と決別
発信時間: 2009-12-21 | チャイナネット

東の醫(yī)學(xué)と西の醫(yī)學(xué)

中國の伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)は、中原である黃河?長江(揚子江)地域を中心に発展し、春秋戦國?漢?唐?宋?金?明?清の、それぞれの時代に特徴的な醫(yī)學(xué)が形成された。

中國では、伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)は、「漢方」とは言わず「中醫(yī)學(xué)」と呼んでいる。

河北省?金山嶺長城の雪景(寫真?劉世昭)

日本では明治維新まで、ほぼ醫(yī)療は漢方にゆだねられていた。漢方とは文字通り中國から學(xué)んだものである。しかし「漢方」という言い方は、江戸時代前期までは存在しなかった。オランダからヨーロッパの伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)が渡來し、これを「蘭方」と呼ぶのに対して、中國渡來の醫(yī)學(xué)を「漢方」、日本固有の醫(yī)學(xué)を「和方」と言って區(qū)別したと、農(nóng)文協(xié)の『図説 中國文化百華』の『癒す力をさぐる』(遠(yuǎn)藤次郎?中村輝子?マリア サキム著)には書かれている。

中國の伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)は古代の日本には朝鮮半島を通じ、あるいは遣隋使?遣唐使によって中國からもたらされた。八世紀(jì)に日本に渡來した鑑真は醫(yī)學(xué)にも精通していたとされ、その將來品には醫(yī)薬品や薬剤が多數(shù)ある。また、空海も醫(yī)に通じ、貴重な將來本を日本にもたらしている。756年に崩御した聖武天皇の遺物を納めた東大寺正倉院には多くの薬品が納められている。日本にとって先進(jìn)文化の享受は、何よりもまず病から身を守る醫(yī)術(shù)や薬剤であり、病気の治療はあらゆるものに優(yōu)先するせっぱつまった事由であった。したがって半島経由であろうが、大陸からの直接輸入であろうが、最新?最先端の醫(yī)術(shù)と醫(yī)師と薬材が求められた。

中國からの醫(yī)方書や本草書がいくらあっても材料の薬物がなければ、名醫(yī)といえども手の施しようがない。漢方の薬材は日本で調(diào)達(dá)できるものはよいが、犀角や麝香など國內(nèi)で見つからないものは輸入に頼るしかない。

もちろん遣唐使にも醫(yī)學(xué)にかかわる人間を送り込んでいた。羽栗翼は遣唐留學(xué)生阿倍仲麻呂の従者として渡唐した羽栗吉麻呂と、唐の女性との子であるが、734年に16歳で來朝。遣唐録事となり、再度遣唐船に乗って入唐。786年には內(nèi)薬司正兼侍醫(yī)となり、皇室の醫(yī)療を擔(dān)當(dāng)した。

日本に蘭方がやってきた

江戸時代までの日本は鎖國政策をとっていたので、歐米の醫(yī)學(xué)が自由に出入りしていたわけではなく、日本唯一の開港地となっていた長崎の出島を介して蘭方醫(yī)學(xué)が伝えられた。

正倉院に殘る薬の獻(xiàn)納目録。麝香や犀角など日本にはない、薬材が見える

1634年江戸幕府の鎖國政策の一環(huán)として長崎に築造された人工島―出島は、明治維新のせまった1859年オランダ商館が閉鎖されるまでは、対外的に開かれた小さな窓であった。オランダ商館醫(yī)と日本人醫(yī)師との交流は、出島や江戸の蘭人宿舎(長崎屋)に限定されたが、それでも彼らの醫(yī)學(xué)的知識は、オランダ語の解剖學(xué)や外科學(xué)の書物とともに、日本の醫(yī)學(xué)に大きな影響を與えた。やがて、杉田玄白らによる『解體新書』の翻訳を機(jī)に、蘭方醫(yī)學(xué)への関心が急速に高まった。また、宇田川玄隨がヨハネス?ダ?ゴルテルの醫(yī)學(xué)書を訳した『內(nèi)科選要』の刊行も、従來外科のみに留まっていた蘭方醫(yī)學(xué)への関心を、內(nèi)科などの他分野にも拡大させたという點で日本の醫(yī)學(xué)にかなり影響を與えた。このようにして蘭方醫(yī)學(xué)は一大流派となっていったが、日本の醫(yī)學(xué)界全般を見れば、まだまだ漢方醫(yī)學(xué)が圧倒的に勢力を誇っていた。

開國後の1857年、江戸幕府は長崎海軍伝習(xí)所の醫(yī)學(xué)教師としてヨハネス?ポンペ?ファン?メーデルフォールトを招聘した。これ以降、日本でも本格的?體系的な蘭方醫(yī)學(xué)教育が行われ、4年後に蘭方専門の醫(yī)療機(jī)関である「長崎養(yǎng)生所」が開設(shè)される。蘭方醫(yī)學(xué)は近代日本における西洋醫(yī)學(xué)導(dǎo)入の先鞭を果たすこととなった。

漢方との決別

日本は明治維新(1867年)から間もない1873年に徴兵制を布く。日本陸軍はすでに1871年には創(chuàng)設(shè)された。創(chuàng)設(shè)當(dāng)初のフランス式軍制から1888年にはプロイセン式の軍制に改められた。

ウイグルの「80袋屋」。ウイグル語で薬屋の総稱(寫真?大村次郷)

江戸時代末期には諸外國の影響を受け、蘭方醫(yī)學(xué)が力を持ち始める。漢方醫(yī)は幕府を動かし、1849年「蘭方禁止令」を出させるが10年もたたないうちに廃止された。背景には幕府がヨーロッパの軍事技術(shù)だけではなく、軍陣醫(yī)學(xué)も導(dǎo)入すべくオランダの海軍軍醫(yī)ポンペを海軍伝習(xí)所に招聘し醫(yī)學(xué)教育を依頼した。外科に弱い漢方は戦爭にはまったく役に立たないと判斷され、蘭方のみが採用されたのである。

明治政府は、江戸幕府とは全く観點を変えて西洋醫(yī)學(xué)を受容する。つまり「富國強(qiáng)兵」を旗印に掲げるには、漢方は全く不向きであると判斷したのである。戦爭には怪我は付きものであり、弾丸や砲弾を受けて負(fù)傷した兵士を助けるのは、外科手術(shù)以外に方法はない。漢方のもっとも苦手とする分野であった。さらに漢方は一人一人の癥狀に合った煎じ薬の処方を考える。戦場で風(fēng)邪が流行り、百人が高熱を出したとすれば、即座に投薬し、7、80人を回復(fù)させる必要がある。下痢も同じである。日本は富國強(qiáng)兵、軍國主義の道を走るために漢方を捨てたのである。

「人民中國インターネット版」より 2009年12月21日

 

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