1947年6月17日、上海軍事法庭で死刑判決を受けた中國侵略日本軍の江陰憲兵隊(duì)軍曹下田次郎と常熟憲兵隊(duì)隊(duì)長米村春喜。街を引き回された後で処刑場に向う。 |
第2次大戦時(shí)の連合國は東京に極東國際軍事裁判所を設(shè)置して日本のA級戦犯の審判を行っただけでなく、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどでB級、C級戦犯の審判を行った。連合國に起訴された各種の日本の戦犯総數(shù)は5423人、判決を受けたものは4226人、そのうち死刑に処せられたのは941人だ。その中で中國では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、臺灣など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷が設(shè)置され、1949年2月までに戦犯145人に死刑の判決を下した。また米國や英國、オーストラリアにも法廷が設(shè)立され、米國では6人、英國では21人、オーストラリアでは5人が死刑になった。
「人民網(wǎng)日本語版」2011年2月15日