地震後の相馬港付近の光景
通りはきれいになり、コンビニも営業(yè)を再開、だが売るものが何もない。物流企業(yè)は政府の説明をもとに、相馬市を「放射能を浴びる危険な都市」に指定。企業(yè)は従業(yè)員に商品の輸送を命じることができず、従業(yè)員もいつでも「放射能の危険」を理由に拒否できるのだ。
「よその土地でモノを買うのに、40から50キロも運(yùn)転しなければならない。自分で作ったお米は毎日食べていますが、ソーセージや缶詰なども必要だ」。65歳のこの男性は避難することを考え始めたという。留守をあずかる生活は非常に大変だからだ。野菜も栽培していたが、政府は農(nóng)民に食べないよう、さらに収穫しても売らないよう勧告した。
「政府はいっそのこと、30キロ圏內(nèi)の人も避難したほうがいいと言うべきだ」。相馬市の桜井勝延市長はこう指摘する。ここに留まっていても食べものはない、ガソリンもない、だが、避難することを決めても、心忍びないというのが現(xiàn)狀だ。多くの農(nóng)民は乳牛と寄り添うように暮らしてきた。人は避難しても、家畜は一緒には行かれない。
地震で相馬市の沿海部は平地と化した。通りに家屋は見當(dāng)たらず、あちこちに散財するがれきだけが、ここにかつて家が密集していたことを物語っていた。主を失った犬が、大通りをぶらぶらと歩いている。高く立てていた尻尾は、股間に窮屈そうに挾まったまま。たまに車が通りすぎても、ほこりがそれほど立たないうちに姿は見えなくなる。
原発近くの海岸地帯はさらに人影がない。地震と津波が去って3週間後、政府は市民に不明者の捜索をしないよう通知した。「ここの遺體は原発から漏れた放射能に汚染されている可能性がある」。
放射能の重大性は次第にさまざまなルートを通じて伝えら、相馬市もさらに廃墟へと近づいていった。
相馬市立総合病院の金沢幸夫院長は「私は行けません。付近にはまだ130人ほどの患者がいて、診察に來るからです」。救急車が停まっていたが、急を要する患者は自衛(wèi)隊(duì)に搬送してもらうしかない。
「ここ數(shù)日はまだいいほうですが、こうした狀態(tài)がいつまで続くか」。病院を守る市職員は嘆息する。
?中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)? 2011年4月7日