4月19日、東京発の飛行機(jī)が仙臺(tái)空港の滑走路に著陸した??崭郅螜Mにある日本航空大學(xué)が「3.11」地震と津波の被害を受けてから1カ月、授業(yè)で使用する飛行機(jī)は無殘に壊れ、敷地內(nèi)はスクラップになった飛行機(jī)の集積場のようになっている。
雨が降り、冷たい風(fēng)が吹き付ける。19日の仙臺(tái)は一日を通して荒れ模様だった。夕がたになると、雨が雪に変わった?!?.11」地震で甚大な被害を受けた仙臺(tái)臨海地域は、こうした雪交じりの雨の中で、復(fù)舊作業(yè)が進(jìn)められている。
海沿いに建設(shè)された仙臺(tái)空港に向かう途中、視界に入るのは津波が殘した傷跡。無慘な狀態(tài)となった車が山のように重なり、車の墓場のようになっている。取材に同行した運(yùn)転手はこの光景を見て、心が痛むと言った。車の墓場の向かいを見ると、廃墟が山のように積まれている。何臺(tái)もの重機(jī)が大きな音を出して、がれきを除去していく。白いヘルメットをかぶり、青い制服をきた作業(yè)員たちは雨風(fēng)の中、作業(yè)に忙しくしていた。往來するトラック。周辺の被災(zāi)地からがれきを運(yùn)んでくるものもあれば、処理の終わった廃棄物を必要な場所へ運(yùn)んでいくものもある。
仙臺(tái)空港の飛行機(jī)格納庫前にある駐機(jī)場には、腕や足の折れたヘリコプター、小型飛行機(jī)10機(jī)あまりが並んでいた。一見すると、飛行機(jī)事故現(xiàn)場のようだ。格納庫の後ろの光景はさらに恐ろしい。數(shù)え切れないほどの荷物運(yùn)搬車、搭乗用バス、タラップ車や各種小型自動(dòng)車が津波に押し流されて山積していた。その內(nèi)、3臺(tái)の車からは中國國際航空のマークが見てとれた。
そこから近い空港の滑走路では、著陸した飛行機(jī)がゆっくりとタクシングしている。「仙臺(tái)空港には電気も水もなく、現(xiàn)在は緊急用電源を使っている。4月13日に東京と大阪を結(jié)ぶダイアが再開した。現(xiàn)在のところ、一日6便が就航しており、乗客の數(shù)も多い?!谷湛章殕Tである及川さんはこのように述べた。震災(zāi)前、仙臺(tái)空港は一日40以上の便が運(yùn)航していた。その中には大連と仙臺(tái)を結(jié)ぶ國際便も含まれていた。同便は今年9月に再開予定だという。
仙臺(tái)港の狀況はさらに悲慘である。防波堤は津波により巨大な裂け目ができ、堤防沿いの大木は根こそぎ流された。仙臺(tái)港周辺の工場、自治體は見るも無殘な姿となり、津波は真っ黒な廃墟だけをこの地に殘した。
仙臺(tái)港の南にある三本塚町は荒れ地となっていた。180名近い町民は仙臺(tái)市若林區(qū)にある六郷小學(xué)校の體育館に避難し、救援物資を頼りに暮らしている。避難所では、ボランティアの人々が被災(zāi)者の心のケアにあたり、通信事業(yè)者が無料電話を開放した。また、政府は19日に、避難所の一部の被災(zāi)者を山形の溫泉地に送り屆けた。
相澤さんは三本塚町の被災(zāi)者であり、避難所の責(zé)任者でもある。相澤さんは取材に対し、「避難所にいる町民は、來たばかりのころよりも落ち著いてきている。町民はみんな、政府が現(xiàn)在建設(shè)している仮設(shè)住宅への居住を申請している。ここにいる被災(zāi)者はみんな同郷の人たちであり、みんな同じ場所で一緒に暮らすことを望んでいる」と述べた。元々住んでいた家を失くした被災(zāi)者たちは早く自分の家を持てることを望んでいる。
避難所の外では、ランドセルを背負(fù)い、傘をさした小學(xué)生が、すでに授業(yè)を再開した六郷小學(xué)校の校門から出てきていた。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2011年4月21日