また全體主義者の呼びかけに対して、理想主義者が呼応しやすいという指摘も見(jiàn)捨てがたい。ヒトラーの演説などは無(wú)茶苦茶だが、第一次大戦後に疲弊して、傷ついた誇りを回復(fù)せんとする人々には鋭く響いたのであるから。
apathyといえば、わが日本人も人後に落ちない。封建社會(huì)が長(zhǎng)く続いたのはそれが原因である。しかし、かの15年戦爭(zhēng)前には一転して全體主義の流れに組み込まれてしまい、表面的には熱狂的日本精神教信者になった。
煽動(dòng)者は危機(jī)?不満意識(shí)に便乗する。人々を煽る。加えて被害者になるぞという心理狀態(tài)は無(wú)関心?無(wú)頓著な人の気持ちを不安定にさせる。個(gè)人としては非力だから、全體として景気づけされると、自分も一體化して高揚(yáng)する。
1990年代からのわが國(guó)の事情は、まあ、ちょっと考えればいかにもやりきれない気持ちになるだろう。いわば客観的條件は十分に整っているわけだ。そもそもapathy型は、熟慮してapathyを気取っているのではないから、なにかのきっかけで付和雷同し始めると始末が悪い。
権力を掌握する前の全體主義的扇動(dòng)者は、うまくいけば彼らが批判する政治家たちを覚醒させて、政治の改善につながる可能性がないではないが、それが捗々しくないとすれば、全體主義的傾向をもった連中が國(guó)內(nèi)政治においてドタバタを開(kāi)始する。ますます政治狀況を混亂させる。
人気によって動(dòng)く政治というものは、常に警戒せねばならない。聲高く《改革》を唱える政治家にはとりわけ要注意だ。邪教邪淫を流し続けるようなテレビを通して人気を獲得した政治家の言葉はくれぐれも吟味せねばならない。