近代のヒューマニズム(狹い意味の人道主義ではない)である人間的実存を、生きる価値の基礎(chǔ)に據(jù)える思想を殘した。ここに自由を求める自我の考え方が実踐的に殘されたわけだ。
そこらへんに転がる精神主義ではない。精神を磨くことに生涯を貫いた人が紡ぐ言葉は美しい。ペトラルカの追求した課題は「生きる哲學(xué)」、人格の陶冶にあった。これこそが自由の本旨である。
P?ヴァレリー(1871?1945)の「精神の危機(jī)」を再読。第一次大戦後の西歐について、精神の危機(jī)という視點(diǎn)から考察したものを集めており、人間観、社會(huì)観、世界観を考えるうえでいろんな示唆に富む。
思えば、わが青春時(shí)代には、《精神》は敬遠(yuǎn)されていた。敗戦後20年、かつての奇怪な日本精神なるものへの反感が、戦前を知らない世代のオツムにも強(qiáng)く刻印され、精神という言葉自體が思考対象から外れていたみたい。
しかし、すべての個(gè)人の思索?行動(dòng)、社會(huì)狀況は、煎じ詰めれば精神の所産に違いない。それでは「精神(について考えること)を敬遠(yuǎn)する精神」であって、よろしくない。
考えないことは問(wèn)題意識(shí)がないのであって、問(wèn)題意識(shí)がなければ問(wèn)題がないことになってしまう。しかも、現(xiàn)実は問(wèn)題だらけである。