文=奧井禮喜
中國の若い友人R?Zさんから「どんな古典を読むべきか」と尋ねられた。うむ。日頃、若い方々に「古典をお読み」と言いつつ、折々の話に関連した本は紹介するが、じっくり考えて話していたわけではない。
弁解すれば、私が古典に集中し始めたのはそんなに古くはない。しかし古典が馥郁と感じられるようになった30年間を思えば、早くから古典に親しめばおおいに進化?前進できるに違いないとの期待を込めていた。
なにしろ橋の下をたくさんの水が流れたように、世界中にバルブ本が氾濫し、古典として殘っている本も數限りない。これぞと求めて読み始めたものの、とても歯が立たない本が本棚に積読しているような無様でもある。
ショーペンハウエル先生(1788?1869)は、《読書論》を書きながら「本など読むな。そんなものは他人の古著に過ぎぬ。」と喝破された。まあよろしい、これ、考えない読書は無意味であると受け止める。
高校時代、「精読か多読か」という亂暴な討論會テーマがあった。今様ディベートであれば、「考えて読む?読んで考える」という結論に到達するかもしれないが、果たしていかがだったか。記憶にない。
「國民性を知るには二流の作品を読め。人間性を磨くには一流の文學を読め。」ともいう。思えば二流どころかパルプ本が圧する次第だから、読まなくてもそんな本が氾濫する國民性など推して知るべしであって。
「何を読むべきか」という問いは、畢竟「いかに生きるべきか」という問いに到達する。《読むべき本》が規定できるとして、それとて膨大に存在する。自分の問題意識、テーマがなければ建築物は作られない。