日本の安倍晉三首相は先日ワシントンで講演した際、釣魚島(日本名?尖閣諸島)について「1895年から1971年まで日本の主権に挑戦する者は誰もいなかった」と強(qiáng)調(diào)した。これは明らかに噓だ。だが仮に上述の76年間を2段階に分けて分析すれば、この噓から以下の事実が難なく見てとれる。(文:劉江永?本紙?zhí)丶s論説員、清華大學(xué)現(xiàn)代國際関係研究院副院長。人民日?qǐng)?bào)海外版コラム「望海樓」掲載)
第1段階は1895年から1945年までの50年間だ。釣魚島は甲午戦爭(日清戦爭)中の1895年1月に日本によって秘密裏に盜み取られた。さらにその後日本は不平等な馬関條約(下関條約)によって、臺(tái)灣およびその全ての付屬島嶼の割譲を清政府に強(qiáng)いた。その後日本は臺(tái)灣を50年間植民地支配した。この期間の初めの10數(shù)年間、清政府は臺(tái)灣に対する主権すら失っていたのだから、臺(tái)灣の付屬島嶼である釣魚島が日本に占拠されたからといって、どうして挑戦できようか?そしてこれは腐敗した無能な清政府が覆された重要な要因でもあるのだ。その後、中國人民は日本軍國主義の侵略に斷固として抵抗し、反撃を加え、1945年に日本がポツダム宣言を受け入れて降伏するまでこれを続けた。日本が誰からも挑戦されなかったなどとどうして言えようか?
第2段階は1945年から1971年までの26年間だ。沖縄は米國に占領(lǐng)されて信託統(tǒng)治下にあり、日本の主権管轄下の領(lǐng)土ではなかった。ポツダム宣言とカイロ宣言によって、日本は釣魚島を含め中國から巻き上げた領(lǐng)土を返還しなければならない。だが、この間、釣魚島は米軍によって不法に射爆撃場にされた。新中國政府はこれに斷固たる反対を表明した。そしてこの間、日本は釣魚島の領(lǐng)有権問題において中國から挑戦を受ける資格すらなかったのだ。早くも1950年5月に新中國には日本の領(lǐng)土問題関連の交渉草案の中で、赤尾嶼(日本名?大正島)を含む釣魚島を臺(tái)灣に組み込んで中國に返還することを提案し、沖縄の範(fàn)囲を舊琉球國36島內(nèi)に制限すべきだと明確に強(qiáng)調(diào)した人物がいた。ただ、サンフランシスコ講和條約會(huì)議から中國が排除されたため、この主張を正式に提起することはできなかった。また、1960年代末に日本や米國が釣魚島周辺でエネルギー資源調(diào)査を行う動(dòng)きがあった際には、人民日?qǐng)?bào)が1970年12月4日付で激しく非難する記事を掲載した。同年12月29日付の人民日?qǐng)?bào)論説員の記事は「釣魚島、黃尾嶼(日本名?久場島)、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼は臺(tái)灣と同じく、古來中國の領(lǐng)土だ」と指摘した。これでも日本は誰からも挑戦されたことがなかったなどと、どうして言えようか?