中國民主革命の先駆者である孫文と長崎県で生まれた梅屋莊吉の友情は、中日友好交流史における美談と言える。梅屋莊吉は1868年に長崎市西浜町の裕福な家庭に生まれ、幼い頃より各地を巡り、幅広く社會に參與した。梅屋莊吉は16歳の年に単身で上海に向かい、上海で列強諸國の中國民衆に対する屈辱的行為を目の當たりにし、アジアの平和?弱者の援助?人類共和の理想を持った。1895年1月、孫文は梅屋莊吉と香港で出會った。梅屋莊吉は當時、香港で寫真館を営んでいた。梅屋莊吉と孫文は天下について語り合い、話に花を咲かせた。二人は知己となり、梅屋莊吉は孫文に対して「あなたが挙兵すれば、財政支援する」と約束した。梅屋莊吉はその後、孫文が指導する革命闘爭に資金援助した。史料によると、梅屋莊吉がその生涯で孫中山の革命に提供した資産総額は、現在の価値にして2兆円に達するという。また梅屋莊吉夫妻は、孫中山と宋慶齢の「仲人」であり、二人の結婚をとりまとめた。
孫文が逝去すると、梅屋莊吉は深く悲しんだ。孫文の偉大な業績を示すため、梅屋莊吉は孫文の4體の銅像を中國に寄贈した。80數年後の今日、辛亥革命の100周年を記念するため、中國側は返禮として孫文と梅屋莊吉夫妻の銅像を日本に寄贈することを決定した。三人の銅像の除幕式は2012年11月に執り行われる予定であったが、當時の日本政府が釣魚島(日本名:尖閣諸島)に対していわゆる「國有化」を実施し、中日関係を緊張に陥れたため、銅像の設置が先送りにされた。関係者の努力を受け、三人の銅像はついに美しい長崎港に設置された。フェリーに乗船し松が枝國際ターミナルを行き來する乗客、長崎現地の市民と各地の観光客は、この銅像を通じて當時の手に汗握る闘爭の歴史を理解し、先人たちのアジア平和のために身を捧げた気概と志を偲び、孫文と梅屋莊吉の真摯な友情を感じ、両國人民の友好促進という重大な使命を引き継ぐことができる。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2013年3月26日