9月25日、平型関の戦いで、八路軍の要撃に遭った千人の日本兵が全員死亡した。戦いが終わった後、某軍団は1000人以上の群衆(zhòng)の助けのもと、戦場の掃除、烈士の遺體の埋葬、各種の戦利品の整理を行った。
食品などの雑品が多く散亂し、近くの村の住民は喬溝に入り、これらの「遺物」を拾った。初めて見る日本製の菓子や缶詰を拾った人、レインコートやマントを拾った人がいた。中には、くし、鏡などの女性用の物を見つけた人もいた。
當(dāng)時12歳だった霊丘県の李首銘が小寨村の大人たちと一緒に喬溝でものを拾っていると、死體の中に意外にも女性兵士がいるのに気がついた。繁峙県政治協(xié)商會議部門が1985年に行った抗日戦爭資料調(diào)査によると、ほかの村の住民も「もの拾い」の最中に女性兵を確認している。
この問題に関しては、史學(xué)界でまだ論爭がある。1990年代、抗日戦爭を研究する一部の學(xué)者は、戦爭初期に日本の軍隊に女性兵がいたとは信じておらず、日本側(cè)の資料にも関連の記録はない。しかし、村民は実際に目撃している。彼女たちが通信兵だったのか、それとも醫(yī)療兵、軍人の慰安婦であったのかはまだわかっていない。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」 2013年7月23日