鞍山憲兵隊(duì)の文書には、1944年に日本軍が米軍爆撃機(jī)を撃墜した後の捕虜リスト、米軍の捕虜に対する取り調(diào)べの記録が留められている。
鞍山憲兵隊(duì)の文書には、1944年に日本軍が米軍爆撃機(jī)を撃墜した後の捕虜リスト、米軍の捕虜に対する取り調(diào)べの記録が留められている。
世界の反ファシズム戦爭勝利、中國人民の抗日戦爭の勝利は、來年で70周年を迎えようとしている。日本の政界では侵略の歴史を否定し、日本の軍國主義を復(fù)活させる妖しい風(fēng)が吹き荒れており、「侵略に定義はない」、「慰安婦は必要だった」、「南京大虐殺は虛構(gòu)」といった虛言と暴論が口にされている。これほど不遜な態(tài)度を示している重要な原因には、日本が敗戦時(shí)に大量の公文書を意図的に廃棄し、多くの侵略の罪の証拠を隠滅したことがある。中國吉林省檔案館(公文書館)は最新の調(diào)査により、中國を侵略した日本軍の公文書計(jì)89件を整理した。これには日本軍の南京大虐殺、慰安婦の強(qiáng)制連行、731部隊(duì)への人員の「特別移送」、労働者の酷使、中國の軍人?國民に対するさまざまな暴行、中國東北地方への植民地侵略、東北抗日聯(lián)軍の鎮(zhèn)圧、取り調(diào)べ中の英米人捕虜の虐待などの內(nèi)容が含まれ、鉄の証拠が山を成すと言える。資料集『山を成す鉄の証拠――吉林省で新たに発見された、日本による中國侵略の公文書の研究』の発売記念のイベントが、4月23日に吉林省檔案館で開かれた。中國慰安婦問題研究センター主任の蘇智良教授は、環(huán)球時(shí)報(bào)の記者の取材に応じた際に、「これは日本軍の自供だ」と指摘した。吉林省檔案館の穆占一副館長は、「これは當(dāng)館に保管されている、中國を侵略した日本軍の10萬件の公文書の、氷山の一角だ」と語った。
南京大虐殺の「重要な証左」
南京大虐殺は歴史において、日本軍國主義が犯した深刻な戦爭犯罪の一つであり、中日の現(xiàn)実における駆け引きの一大焦點(diǎn)でもある。吉林省檔案館がこのほど発表した公文書のうち、6件が南京大虐殺の史実と関連する內(nèi)容となっており、中國を侵略した日本軍の南京大虐殺に「新しい重要な証拠」を提供した。6件のうち5件は日本軍が殘した當(dāng)時(shí)のままの公文書で、1件は日本の新聞に掲載された記事だ。
1938年2月28日に、日本軍の華中派遣憲兵隊(duì)の大木繁司令官が報(bào)告した「南京憲兵管轄區(qū)內(nèi)の治安回復(fù)狀況に関する報(bào)告」には、昭和13年(1938年)2月11日から20日の、南京および周辺地域の「治安回復(fù)」?fàn)顩rが記録されている。そのうち「難民帰還狀況」には、日本軍の南京大虐殺前の「南京の人口は100萬人」と明記されている。しかし大虐殺発生後の1938年2月末、「南京に帰還した人口は33萬5000人のみ」とされている。吉林省檔案館の研究員である趙玉潔氏は、「これは日本の右翼の、南京大虐殺前の人口は30萬人未満という噓を真っ向から否定した」と指摘した。
當(dāng)時(shí)の日本メディアは、大虐殺の慘狀を伝えた。1937年12月23日付の大阪毎日新聞(奈良版)は、従軍記者の光本氏の記事「南京総攻撃観戦記」を掲載し、南京侵入後に日本軍が3日間で8萬5000人を殺したと伝えた。光本氏は「日本軍の助川部隊(duì)と海軍の掃討により、下関の埠頭から最も近い通りから揚(yáng)子江の下流まで、死體が2?3里に渡り浮かんでいた」と詳細(xì)に記した。
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2014年4月28日