「日本帝國主義は1938年2月から1944年12月まで、戦時下の中國の首都?重慶に対し、6年10カ月にわたる大規模爆撃を計劃的かつ組織的に行った。その後、この爆撃は『重慶大爆撃』と呼ばれることとなった」。重慶抗戦遺跡博物館の梅園展示ホールの序言である。展示ホールでは、狂気に満ちた戦爭犯罪の一つ一つが克明に紹介されている。
第二次大戦中の空前の「戦略的爆撃」についてはこれまで長い間、十分な史料や記録が人々に明らかにされてこなかった。だが重慶の山中に今も殘る大小様々の防空壕は、永遠に消すことのできない印として、戦爭の殘酷さや歴史の苦しみ、中國人民の不屈の意志を記録し、訴え続けている。
史上まれに見る大爆撃で投降迫る
大まかな統計によると、この6年10カ月の間、舊日本軍は重慶に対して218回の爆撃を行い、延べ9513機の飛行機を出動させ、2萬1593個の爆弾を投下した。市民の死者は1萬1889人、負傷者は1萬4100人、破壊された家屋は1萬7608棟にのぼった。
爆撃の規模の大きさや期間の長さ、損失の深刻さは、戦爭史上それまでになかったものである。日本の軍事評論家である前田哲男氏も、同一都市に対するこれほど長期にわたる攻撃は航空戦史上初めてだったとの認識を示している。
大爆撃は重慶の民衆に數えきれないほどの致命的な災いをもたらした。
1940年8月19日と同20日の2日間は、舊日本軍が爆撃に投入した飛行機が最も多い日となった。爆撃には最も進んだ零式艦上戦闘機が起用された。防空力がほとんどなかった重慶は、敵機の暴虐の下に完全にさらされることとなった。
當時、重慶に駐在していた外國人記者は次のように爆撃の慘狀を報告している。「19日午前1時35分から20日午後2時まで、重慶は連続4回の爆撃に遭った。中心部の商業區や郊外、江北の広いエリアが破壊に遭った。38カ所で火災が発生し、家屋と商店2000棟以上が巻き込まれ、死傷者は數百人に達した。巴県の県城は5分の1しか殘らず、その他はすべて破壊された。重慶の街道はほとんど見分けられなくなった」
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2015年7月20日