日本軍は、中國の軍人や民間人に対して殘酷であっただけでなく、自らの下士官や兵卒に対しても人間味を欠いていた。上級士官はしばしば、下級兵士に対して、妻や戀人から送られてきた手紙を皆の前で朗読させて笑いものにした。臼井はこのやり方が我慢ならず、上級士官の目の前で婚約者の手紙を破り、ひどく毆られた。部隊の駐屯地の移動では、兵士が疾病にかかって動けなくなることがあった。規定では擔架で運ぶことになっていたが、弾薬や兵糧の運搬を優先するためにそのまま捨てられ、見殺しにされる病人は少なくなかった。
日本の敗戦?降伏後、臼井英雄は東京に戻り、気象機器設備の開発に従事するようになった。6年待った婚約者との結婚も果たした。
臼井英雄は1987年に死去し、息子の芳雄は研究所を継いだが、政治にはあまり関心がなかった。だがここ2年、日本社會の雰囲気はますます戦前に似てきた。政府は民意を無視して新安保法案を強行し、一部の政治勢力は戦爭犯罪者を英雄にまつり上げている。若者の多くは侵略の歴史をまったく知らない。
家計の足しにするため、臼井芳雄はタクシー運転手も兼任している。乗客と憲法改正の話になることもあるが、日本が再び戦爭に向かっているのではないかと臼井が不安を口にしても、多くの乗客はそれ以上関心を示さない。ネットには戦爭責任を否定する言論があふれている。臼井は、70年余り前に日本が発動した侵略戦爭への関心を高めるため、父親の話を実名で公開し、皆に聞いてもらおうと思うようになった。臼井は、日本が戦爭を徹底的に反省できていないことが、日本社會の右傾化の原因の一つとなっていると考えている。
臼井の中學時代、安藤という教師が、中國は日本にとって最も重要な隣國であり、中國の歴史をよく學ばなければならないと教えた。2014年8月、臼井は日中友好協會に參加し、中國語を學び始めた。活動への參加によって、臼井は侵略戦爭の知識を深め、両國の政治家が始めた中日友好事業に賛同するようになった。日本が平和発展の道を引き続き歩み、日中両國の人々が友好を継続できるようにするため、當時の被害者を探し出し、父親に代わって謝罪しようと考えるようになった。
戦爭から長い年月が経った。父親は當時の具體的な住所は殘していない。臼井が知っているのは、被害者が湖南省の臨湘県長安か華容県北景港または岳州付近に住んでいるだろうということだけである。父親の話に基づいて、臼井は、被害者の村民が縛られて拷問を受ける場面を描いた。記者に渡したすべての資料には印鑑を押して、自らが本心であることを示した。「被害者がまだ生きているなら、中國に行って父に代わって謝りたい」。臼井は自らが証人となり、犯罪を糊塗しようとする聲に立ち向かおうとしている。歴史の改ざんを許してはならず、戦爭を再び繰り返してはならない。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月5日