なぜ中國で活動する決意をしたのか?1992年から2000年まで東京で俳優活動兼俳優の付き人をしていたが、與えられる役はほとんどがチョイ役ばかり。自分をアピールできるだけの役は與えられなかった。勿論當時自分の実力がなかったの一言に盡きる。『新しい物を吸収したい』『日本にないものを身に付け、自分のカラーを築きたい』『外國に行きたい』付き人5年目以降からそういう感情が強くなりました。
ずっと思い続ければ願いは葉うもの、2000年4月、當時の日本のプロダクションを通して中國での連続ドラマの出演が決まった。當時、何も中國に対しての知識はなかったが、最初にこの一報を聞いた時は胸がドキドキするような興奮があった。今でも忘れないあの感情。何かの始まりを告げる興奮でした。
初めての中國の撮影は新しい発見ばかり。例えば晝間のシーンの撮影、時間がおしてしまって夕方になってしまった。監督とプロデューサーが相談し、理由が成立すればすぐに夕方のシーンとして撮影する。ワンカットの某ホテル玄関口の撮影では、ホテル側に撮影許可取らず盜撮を敢行する。日本ではありえない話。やってる俳優は迷惑極まりない。中國での初めての撮影は自分にとってある一定のシステムにとらわれない自由な要素を含んだ撮影方式。
當時のドラマは現代ドラマ。自分が演じた役は京劇を勉強する為に北京に來た日本人留學生役?川島。ある中國女性に一目ぼれするという役。川島は流暢な中國語を話せる。だが當時、全く中國語を話せなかった自分は現場の撮影では臺詞は日本語(放送時では中國語に吹替えされた)。相手の中國俳優は中國語。もともと臺本で內容は把握してはいるが、お互い相手の言葉が聞き取れないなかで芝居をする。やりにくい部分はあったが、同時にこのような日本感覚で言うありえない方式をいとも簡単に可能に進行するシステムに驚きと新鮮感を感じた。
この中國のフランクな気風に引き込まれ私は2001年4月、獨立獨行で北京に來たのだ。でもこの獨立獨行の行き方に憧れを感じていた自分がいたかもしれない。同時に獨立獨行な自分に満足を感じていました。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2011年4月29日