父は僧侶から企業家へ
父親は還俗した人で、頭は切れ、手も器用だった。1959年の民主改革初めに協同組合で縫製の仕事をし、後に牧場を経営した。赤字を黒字にする達人で、管理面では奨勵と公平を重視。80年代に全國で最も豊かな牧場となった。公共積立金は數十萬元。牛は數萬頭、馬は數百頭にのぼった。牧場は肉や穀物、スー油などを配給したほか、毎月58元の給料を支給(當時、大卒1年後の給料は56元)。父親は國の規定に沿って38元しか受け取らなかった。公的なものを貪ったり、せしめたりせず、非常に公平無私の人だった。
父親とラサのポタラ宮の前で
牧場経営に成功すると、県政府から度々、経営不振の別の牧場や皮革工場、営林場の経営を依頼された。仕事でひどい怪我をしたこともあるが、治療に行く時間もなく、一心に思い続けたのは公のことだった。何をすれにせよ、とにかく出色していた。
子どもが5人と多かったため、生活費もかかった。父母とも収入はあったが、経済的にはごく普通の家庭。他の人が豊かになって、家を新築しても、文泉家には何もなかった。父親は退職後、小さなレンガ工場を開き、5年余りかけて、自分の力で4階建ての家を建てた。「完全に自分の能力で、清廉潔白に、正直であれば他人と同じように生きられる」ことを立証するためだ。
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母は民主改革の恩恵を
母親は中國共産黨黨員。民主改革前、彼女の父親は土司(どし?世襲の官職を與えられた少數民族の首長)の借金から娘を使用人として抵當に取られていた。民主改革後、政府は彼女を派遣して漢語の勉強をさせ、通訳に。その後、県や郷の幹部となり、退職前に県林業局副局長を務めた。
母親は仕事に打ち込む一方、夫と共に5人の子供を育てた。土司の使用人から林業局副局長へと、外では國家幹部だが、家では心やさしく善良で、明るく寛大な母親だった。子どもたちが良い成績を取ると、慰めてくれる笑みがこぼれた。