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寫真家 稲垣喬方さん~Part1 中國を思う
発信時(shí)間: 2009-07-02 | チャイナネット

中日交流の仲人役を目指す

1930年、東京生まれ。京都府北桑田美山町の「かやぶきの里」(1993年、日本文化庁より「重要伝統(tǒng)的建造物群保存地區(qū)」に指定)を約30年にわたり撮影。「アマの身分」と「プロの腕」ひとつで仕上げた寫真集『山里殘影』(グラフィック社)は1992年の初版から2003年まで4版を出版、総部數(shù)1萬冊(cè)近くとなった。  

外交官の父と書家?歌人の母の長男として、少年時(shí)代、両親とともに北京に6年滯在(1941~1946)。母は歌集『北京戀』で知られる稲垣黃鶴(1903~2007)。  

戦後は舞臺(tái)美術(shù)のスタッフとして、1955年、市川猿之助の大歌舞伎訪中公演及び翌年の梅蘭芳訪日公演に參加。1973年から、日本の大手新聞社の中國関連報(bào)道記事の収集、整理を始め、36年間でスクラップブック115冊(cè)分に。資料は今春、中國社會(huì)科學(xué)院日本研究所に贈(zèng)呈されたが、収集は「これからもずっと継続していく」。  

フジテレビ美術(shù)部を定年退社後、表裝工房を開き、和紙に寫真を印刷するという斬新なスタイルの掛け軸を提案。  

愛する母親の影響を強(qiáng)く受け、「一日だって北京を思わない日はない」という稲垣さん。北京に入る度、重たい機(jī)材を背負(fù)って胡同にもぐってはシャッターを押し、「ジャージャー麺」の店に入ってはどんぶりをほおばったりしている。そして、現(xiàn)在、観光客のいない中國の奧地での撮影を続けている。

 

 

■Part1中國を思う <北京に戀する母親に導(dǎo)かれて>

――稲垣さんと中國とのかかわりを教えてください。

私は1930年、東京の生まれです。11歳から6年間両親と一緒に北京で暮らし、小學(xué)校と中學(xué)に入りました。  

北京から日本に引き揚(yáng)げてからは、家に負(fù)擔(dān)をかけたくないので、働いて自立すると決め、舞臺(tái)美術(shù)の勉強(qiáng)を始めました。その後、歌舞伎座が再建されたので、そこで舞臺(tái)美術(shù)の仕事をしていました。1955年、猿之助劇団が中國公演を決め、私がセット擔(dān)當(dāng)のスタッフに選ばれ一緒に中國をツアーし、また、翌年の梅蘭芳先生訪日の際もスタッフとして各地を巡演しました。  

最近は、北京、桂林、江西省、安徽省などを訪れ、中國の奧地での撮影を続けています。

――稲垣さんの北京と中國を見る目に、お母様の影響が大きいとおっしゃっていますが…

母は中國の漢字や文化、歴史に惹かれ、北京に來てから中國人の先生に書を習(xí)い、北京での生活を楽しんでいました。母は感性が豊かで、人が見逃すシーンにも感動(dòng)を見出し、それを言葉で表現(xiàn)したい気持ちが常にあり、柳絮の花が散ったとか、荷物を背負(fù)って歩くロバの目の優(yōu)しさなどを、すべて俳句に表現(xiàn)しました。  

母はまた空気や匂い、雰囲気そのもので北京を味わい、自らの歌集を『北京の戀』と名づけ、亡くなる直前まで北京のことを口にし、そのぐらい、北京に対する戀が募っていました。  

「北京に戀する」という心情は、普通の心情とはまた違い、親しみとも違いますよね。本當(dāng)の戀に近い、美しい愛情の表現(xiàn)です。そういう雰囲気の中にいたから、自然と生まれてきた表現(xiàn)だったと思います。子どもの時(shí)からの親の気持ちが子にも伝わって、私も「北京病」にかかったわけです(笑)。(寫真は中國社會(huì)科學(xué)院に資料贈(zèng)呈後、母親の寫真とともに李薇日本研究所所長と記念撮影する稲垣さん)

――1955年の大歌舞伎中國公演の思い出は?

スタッフに選ばれて、とても嬉しかったです。當(dāng)時(shí)、香港?深圳経由で中國に入りました。私たち舞臺(tái)裏のスタッフは、役者より20日早く北京入り、セットを組み立てて、中國に一ヶ月以上滯在しました。公演は北京、上海、広州などで大反響を呼び、その様子は當(dāng)時(shí)の新聞が伝えていました。

最後は、中國の皆さんと「また必ず會(huì)おうね」と言って別れましたが、今度いつ會(huì)えるかなと心の中で思いながら、深圳の國境を歩いて渡った覚えがあります。

――公演の様子を報(bào)じた當(dāng)時(shí)の中國の新聞は、いまも大事に保管しているようですね(寫真)。

両國が國交正常化前の出來事だったので、たいへん話題になっていました。必ずこれがいつか日の目を見ることができると思って、當(dāng)日の新聞を買いあさって、いまだに大事にしています。おそらく日本にも中國にも現(xiàn)物がなくて、貴重なものだと思います。

――當(dāng)時(shí)、稲垣さんにとって、9年ぶりの北京だったのですね。

我が家に帰る気持ちでした。宿泊は新僑飯店。翌朝一番に北京駅へ行こうと思っていました。ところが、興奮して眠れずに、時(shí)計(jì)を見たら夜11時(shí)半だったのを朝の6時(shí)半だったと勘違いして、待ちきれず夜中一人北京駅に向かいました。誰もいない道を一人で歩いて楽しかったです。

――翌年、梅蘭芳先生が訪日した際もスタッフとして參加しました。

梅蘭芳先生は日本で東京、名古屋、京都、大阪、福岡、ずっと巡演し、日本の観客に喜ばれました。私も北京にいた時(shí)、両親とよく一緒に京劇を見に行っていましたので、武將の朗々たる聲が実に印象に殘っています。

梅蘭芳先生は、たいへん柔和な方で、やさしさに満ちていました。親しみをもって接してくださったので、恐れ多いと感じましたが、今は良い思い出になりました。當(dāng)時(shí)の梅蘭芳先生と握手した時(shí)の暖かさ、今だに忘れられません。(寫真は梅蘭芳氏との記念撮影。稲垣さん寫真提供)

――中國人との付き合いで忘れられないエピソードは?

1955年、訪中した時(shí)に知り合った中國人の友人ご夫妻とは、現(xiàn)在も文通を続けており、生涯の友人になりました。  

1956年舞臺(tái)美術(shù)の仕事で仲良くなった中國のスタッフと「また會(huì)おうね」と約束して別れたものの、その中のお二人は東歐巡演に出かけた時(shí)、飛行機(jī)事故に巻き込まれ、帰らぬ人となりました。日本にいた私たちはこれを知り、大変ショックでした。お二人の巡演中のアルバムを作って、家族に渡したこともあり、普通の交流では味わえない深い交流ができたと思います。(つづく)

「中國國際放送局 日本語部」より2009年6月19日

 

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