グローバル化の時(shí)代到來(lái)と共に、流暢な英語(yǔ)はいうまでもなく時(shí)代の要請(qǐng)となっている。日本の一部の會(huì)社では社內(nèi)言語(yǔ)を英語(yǔ)にするという極端な狀況まで出ている。だが日本人はあいかわらず英語(yǔ)がうまくないというイメージから抜け出すことができない。とどのつまり、その理由は私は主に2つの原因によるものだと思っている。
1、 使うチャンスがなく、勉強(qiáng)するだけではどんなに勉強(qiáng)しても話(huà)せない外國(guó)語(yǔ)のままだ。
2、 使える會(huì)話(huà)を?qū)Wばずに、一生懸命に文章を研究しているだけだから。
日本では、よく海外旅行や出張する人はよく「英語(yǔ)は上手でしょう」と聞かれる。この質(zhì)問(wèn)にあなたが「基本的な會(huì)話(huà)ならできます」と答えれば、日本人はこの人は謙虛だと思うだろう。実際、出張といっても、目的地は英語(yǔ)圏だけではない。行き先が北京なら、英語(yǔ)を使うチャンスはほとんどない。そうであるなら、目的地で必要な単語(yǔ)がわかって簡(jiǎn)単なヒアリング力があれば、旅行には十分だ。
しかし、日本で売られている多くの旅行外國(guó)語(yǔ)の本が教える外國(guó)語(yǔ)は非常におかしい。例えば、タクシーで駅に行くのに、こうした本には「我要去火車(chē)站(wo ya o tyu fo tya jyan )」と書(shū)いてある。実際、この様にいうのは長(zhǎng)いしおかしい。中國(guó)人はタクシーの運(yùn)転手に「駅」というだけだ。これは日本人がレストランで注文する時(shí)「ビールと餃子」というのと同様で會(huì)話(huà)の中では必要がない主語(yǔ)と述語(yǔ)は省略でき、重要な単語(yǔ)だけを話(huà)すものだ。それは他の國(guó)でも同じだ。
どの國(guó)の言語(yǔ)でも、會(huì)話(huà)の時(shí)、文章の文法を使う機(jī)會(huì)はすくない。ほとんどは単語(yǔ)を並べるのだ。日本人は外國(guó)語(yǔ)を勉強(qiáng)する時(shí)、ある誤解に陥っている。即ち力をすべて文章と文法の勉強(qiáng)に使い、會(huì)話(huà)やコミュニケーション力に注意せずに、まじめに必要がない文章を暗唱するのだ。しかし、このような暗記した外國(guó)語(yǔ)は、外國(guó)人にとっては理解できないもので、単語(yǔ)を暗記しているほうがもっと実用的なのである。日本のよくない習(xí)慣は、自分が掌握している數(shù)少ない話(huà)し方で伝えようとし、手振り、表情が情報(bào)を伝える有効な手段であることを忘れていることだ。
今、日本の外國(guó)語(yǔ)教育は文法を重視しているが、実際にはこれは非常に滑稽なことだ。2人の人が母語(yǔ)で話(huà)し合うときには文章のような文法を使わず、會(huì)話(huà)自體はは感情と目的を伝える手段であり整った文章をいう必要はない。
會(huì)話(huà)は試験にための教育ではなく、単語(yǔ)だけでもなく、他の手段でも自分の意図を表現(xiàn)できる。自分で言語(yǔ)を勉強(qiáng)する方法がはっきりしなければ、最終的には時(shí)間とお金を無(wú)駄にする結(jié)果になってしまう。言語(yǔ)を?qū)Wぶ環(huán)境、コミュニケーションしたいという気持ちがあるなら、すぐに実用外國(guó)語(yǔ)はできるようになる。反対に、使わずに學(xué)ぶだけの言語(yǔ)は最終的には全部忘れてしまうことになるだろう。
「中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)」2012年7月31日