しかし、客家の住む地域は山が多く、田畑は少ない。土地は痩せていて暮らしは貧しい。そのうえ男尊女卑の舊習が根強く、將來、一家を支える男の子だけを學校へ行かせる。男の子は勉強して官吏となるか、家を出て商売するか、出稼ぎに出るか、軍人になるかだ。だが女の子は、幼いころから山や畑で働き、家事をこなす。彼女らは家族のために私心なく働くが、自分は目に一丁字もない。 私の従姉の栄珍は、美しく、聡明な人で、大きく理知的な瞳をクリクリさせていた。1953年に私が小學校を卒業したとき、彼女は喜んで、私にたった一言こう言った。「小學校を卒業したって。良かったわ」。そう言い終わると、目から涙が溢れ出した。彼女の、あのうら悲しく優しい表情は、今でも深く私の脳裏に焼きついている。私の家に同居していた叔母さんや姉の玉蘭、美蘭も、やはり字を知らなかった。 | 山東省萊蕪市の鳳城街道辦事処は、孔家村から2005年に新入學する學生のために400元の奨學金とお祝いの手紙を送った |
統計によると、1949年の中國の非識字者は総人口の80%以上を占め、農村では90%、女性は70%だった。これではどうやって國家を建設したらよいのか、各地の政府は識字運動を大々的に展開した。 私の故郷の広東省蕉嶺県は當時、人口は10萬1000人しかいなかったが、そのうち非識字者は4萬7000人もいた。このため1950年に全県の448カ所の小學校で、夜間の識字學校を開いた。また、各村でも識字クラスを開設した。 私の村の識字クラスは、帰郷してきた一人の教師が先生になり、真剣に授業をした。夕食を食べ、身體を洗った後、女性たちはたいまつに火を點し、客家獨特の邸宅である「囲屋」のホールに続々と集まってくる。子どもを背負って來る女性もいる。彼女たちは石油ランプの下で、「天、地、人、口、手、足」という字から學び始める。女性たちの実力はばらばらで、子どもは泣き出すし、字を學ぶのはなかなか大変だった。しかし、字を覚えたいと渇望していた女性たちがやっとのことで字を覚えると、その後の彼女たちの生活は文化的となり、便利になった。 50年近い努力のすえ、1998年までに中國は2億300萬人の非識字者を一掃し、非識字率を80%から15%にまで引き下げた。青壯年の非識字率は5%以下となった。 しかし十數億の人口を有する中國は、各地の経済?社會の発展が不均衡で、疾病や天災、人災などで、また新たな非識字者が生まれることは避けがたい。このため1998年から政府は、辺境地區や貧困地區での識字運動を強化し、毎年200萬以上の人々に字を覚えさせた。喜ばしいことには、現在、青壯年の非識字率が4%以下になっただけでなく、字を覚えた人がその後、実用的な技術の育成訓練を受け、労働力の質と自ら豊かになる力を高めたことである。 |