文=JCC新日本研究所副所長?庚欣
日本の巡視船に挾まれた中國の「保釣船」
釣魚島をめぐる紛爭に3つの発端
釣魚島をめぐる紛爭の始まりは3つある。第1は、明代または19世紀末葉の史料である。第2は、第2次世界大戦終結前後のカイロ宣言など重要な史実からなる文獻である。だが、最も重要なのはやはり70年代初め、海外の「保釣運動」によって切り開かれた新たな一章だ。前者2つの発端は、まさに「保釣」により人々に注目されることになった。従って、「保釣」こそが「釣魚島をめぐる紛爭」の真の歴史的な発端なのである。
「保釣運動」はわれわれに3つの基本的事実を示している。
第1は、釣魚島問題は完全に米國が引き起こしたものであり、本質的に米國による中國の主権の侵犯である。
第2は、これが米國の當時の東南アジア戦略における基本的思考、「中日を分化させる」というものだった。とくに釣魚島のようなこの種の直ちに解決はできないが、重大な戦爭を招くこともない「慢性的摩擦」こそが、まさに米國の東アジアジアにおける戦略的利益に合致しており、その力の入れようも適度であった。
第3は、むしろ米國の當初の予想が及ばなかったものだが、即ち、臺灣民衆の利益が損害を被り、同時に強い反発を引き起こしたことから、重大な問題となり、そのため両岸のトップ及び民間の意思疎通に新たな道が開かれたことである。
釣魚島から3つの遺産を手にした米國