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外交部の姜瑜報(bào)道官は先日行われた中國(guó)外交部の定例記者會(huì)見(jiàn)において、注目を集める釣魚(yú)島の帰屬を証明する歴史的資料をめぐり、「この問(wèn)題に関心のある人は『尖閣列島-釣魚(yú)諸島の史的解明』という本を読まれるといい」と述べた。同書(shū)の作者である、著名な歴史學(xué)者の井上清氏(京都大學(xué)教授)は本の中で、釣魚(yú)島を最も早くに発見(jiàn)し、管轄下に置いた國(guó)は中國(guó)であり、釣魚(yú)島は古來(lái)より中國(guó)の領(lǐng)土であったことを明確に指摘しているという。
日本の著名な歴史學(xué)者である井上清氏は1972年、「尖閣列島-釣魚(yú)諸島の史的解明」を発表、その後中國(guó)語(yǔ)版が出版され、1996年には再び書(shū)名を変えて中國(guó)で再出版された。
井上氏は同書(shū)の序言の中で、「1971年11月、私は初めて沖縄を旅した際、釣魚(yú)諸島に関する多くの歴史的資料を収集した。1972年初旬、西歐旅行の機(jī)會(huì)を利用し、英國(guó)海軍資料館で英國(guó)海軍の描いた中國(guó)南部?臺(tái)灣?琉球の海図、航海日誌および探検記録を閲覧した」としている。
同書(shū)の第3章では、「周知の通り、釣魚(yú)諸島は明朝以來(lái)中國(guó)の領(lǐng)土である」とし、「日本および琉球には1867年よりも前には、中國(guó)文獻(xiàn)からの引用無(wú)しに、獨(dú)自に釣魚(yú)諸島に言及した歴史的文獻(xiàn)が1つも無(wú)い。これは偶然とは言えない」としている。
琉球や日本の狀況とは違い、中國(guó)には釣魚(yú)諸島に関する文獻(xiàn)資料が數(shù)多く殘されている。
少なくとも16世紀(jì)中旬には、釣魚(yú)諸島は「釣魚(yú)島」、「黃毛嶼」、「赤嶼」など、中國(guó)語(yǔ)の名前を持っていた。
年代がはっきりしている文獻(xiàn)としては、1534年に中國(guó)福州から琉球に渡り、明朝皇帝の冊(cè)封使、陳侃が書(shū)いた「使琉球録」がある。
また、陳侃とほぼ同じ年代を生きた胡宗憲が編纂した「?海図編」からは、少なくとも16世紀(jì)には、釣魚(yú)諸島は中國(guó)の領(lǐng)土だったことが証明される(1561年の序文が記されているため)。
同書(shū)の巻一「沿海山沙図」に、福建省羅源県、寧徳県沿海の島々についてのことが記載されている。その中に、「鷄籠山」「彭加山」「釣魚(yú)嶼」「化瓶山」「黃尾山」「橄欖山」「赤嶼」は西から東へと並んでいるとある。これらの島は福州より南の海上にあり、臺(tái)灣の基隆海から東に向かって並んでいるとされているため、間違いなく釣魚(yú)諸島が含まれている。
井上清氏は1913年に四國(guó)高知県に生まれ、1936年に東京帝國(guó)大學(xué)文學(xué)部國(guó)史科を卒業(yè)。
1961年より京都大學(xué)史學(xué)部の教授を務(wù)めた。史學(xué)家として、日本の學(xué)術(shù)界において重要な地位を持つ人物だ。
中國(guó)社會(huì)科學(xué)院日本研究所副所長(zhǎng) 高洪:彼は日本で影響力を持つ史學(xué)家の中で、事実を尊重し、釣魚(yú)諸島が中國(guó)に屬すると主張した唯一の人物だと言える。(編集SN)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2010年9月16日