3月11日の東日本大震災(zāi)の発生から2カ月余りになる。この間、祖國は無數(shù)の在日同胞のことを心配し、在日同胞は在日本中國大使館を頼りにした。在日公館職員は大災(zāi)害を前に職責(zé)を盡くし、同胞のことを気にかけ、何ものをも恐れない精神と強い責(zé)任感によって、國民の満足する働きをした。
■危険を冒して被災(zāi)地へ駆けつける
深刻な被害を受けた宮城県、巖手県、福島県、茨城県に滯在する中國人の多くは技能実習(xí)を受けている研修生だ。在日公館職員は大使館と商務(wù)部の指示で、中國人研修生の安全確保に重點を置き、安否確認に力を注いだ。大使館経済商務(wù)処は震災(zāi)後すぐに呂克倹公使をトップとする緊急チームを設(shè)置。在日中國系機関と訪日経済貿(mào)易団體にしらみつぶしに連絡(luò)を取り、人々と建物の安全を確認した。経済商務(wù)処の謝城一等書記官らは地震発生翌日に車を10時間余り運転して茨城県の被災(zāi)地へ駆けつけ、各農(nóng)場を訪れた。こうした農(nóng)場の中國人研修生は二十歳余りの女性がほとんどだ。謝書記官は「彼女たちの言葉や表情には驚き慌てている様子や不安が滲み出ていた。私は彼女たちに家族の連絡(luò)先を書かせ、無事を報告する手助けをした。また『いつでも、どんな必要でも、私たちはあなた方を全力で助ける』と伝えた。祖國からの気遣いに、娘さんたちの顔に微笑みが浮かんだ」と語る。
経済商務(wù)処の李璋発二等書記官は3月13日に茨城県の被災(zāi)地から大使館に戻ると、すぐに14日出発の大使館第3次作業(yè)チームへの參加を志願。溫州市出身の研修生106人を捜すため、放射線危険區(qū)域を駆け抜けて宮城県石巻市へ向かった。自動車は福島県內(nèi)に入ると加速を始め、1時間近く揺られてようやく80キロの放射線危険區(qū)域を駆け抜け、夜11時近くに宮城県仙臺市に到著した。李書記官は「地元住民が放射能を恐れて、多くの人々がすでに脫出した中、閑散とした大通りを走っていると、言い表せないもの悲しさを感じた」と言う。時計の針が午前3時を指す頃、作業(yè)チームはようやく石巻市に到著し、中國人同胞を捜し始めた。
■同胞を捜して避難を手助け