2月11日は中國の舊暦の一日。前日の日記のなかで、「身は他郷にあり、佳節を迎えいつにもまして身內が偲ばれる」と書いた周恩來は、決して郷愁に浸っているのでなく、「考えるとすれば、すぐにいま最も新しい思想について考える、やるとすれば、すぐにいま最も新しい事をやる、學ぶとすれば、すぐにいま最も新しい學問を學ぶ」との志を立てていた。
「周恩來―19歳の東京日記」の編者である日本の學者、矢吹晉氏は書のなかでこう分析している。「周恩來が日本に留學していてころはちょうどロシア10月革命の後、中國の五四運動の前の激しく変動していた時代だった。青年周恩來は學業では余り順調ではなかったものの、むしろ國內外の先進的思想に接觸するようになった。周恩來は日本に行った後に雑誌『新青年』を読み始めるようになり、じきに新文化運動と文學革命理論に傾倒していった。留學の初期は日本語の水準にある程度の限界があったので、ほとんど毎日のように中華青年會館あるいは東亜學校に入り浸って、中國の新聞や雑誌を読んでいた。1918年上半期以降、マルクス?レーニン主義に関心を寄せ、京都大學教授の河上肇の「貧乏物語」や高徳秋水の「社會主義の真髄」など、日本早期のマルクス主義を宣伝する著作を読むようになり、後に、河上肇がマルクス主義を広めるための月2回発行の刊行物「社會問題の研究」の熱心な読者となった。
東京で暮らしている間、周恩來は北洋軍閥政府が日本と主権を喪失する國辱的な條約に調印したことに抗議して逮捕された事件を聞き、その後、愛國留學生の団體「新中學會」に參加するとともに、帰國して革命を発動するという思いが次第に芽生えていった。1919年、「ベルサイユ條約」の調印が最終的に、日本での學業を放棄し祖國に戻るよう周恩來に促したのである。天津に著くと、すぐさま勢いすさまじい五四運動に身を投じ、ここから革命の道を歩み出した。帰國する1カ月前の4月5日、周恩來は京都郊外の嵐山に遊び、有名な「雨中嵐山」を詠んだ。その最後の2句は、周恩來がすでに光明、つまりマルクス?レーニン思想を探しあてたことを示している。
?中國網日本語版(チャイナネット)? 2011年6月15日