■中國は釣魚島を長期間管轄した
明朝の東南沿海部防衛の最高將校である胡宗憲と地理學者の鄭若曾の編纂した『籌海図編』(1562年、図?)は釣魚島などの島嶼を「沿海山沙図」に中國の防衛対象區域として入れている。これは中國が釣魚島を有効に管轄していたことを示す最も古い記録の1つである。鄭舜功《日本一鑑》(1555年)は「釣魚嶼は小東の小嶼也」としている。「小東」は當時の臺灣の別稱であり、當時中國がすでに地理的観點から釣魚島を臺灣の付屬島嶼と認めていたことを物語っている。茅元儀『武備志』(1621年)、明末施永図『武備秘書』、承襲了『籌海図編』は釣魚島を海軍の巡検防御範囲內に記しており、明朝が釣魚島を間斷なく管轄し続けていたことがわかる。
清政府の初代巡臺御史?黃叔巷『臺海使槎録』(1736年)の記述は、釣魚島が行政上すでに臺灣の管轄下にあったことを示している。范咸『重修臺灣府志』(1747年)は釣魚島等の島嶼を臺灣海防の防衛區域內に入れている。陳壽祺等『重纂福建通志』(1871年)は釣魚島等の島嶼を臺灣宜蘭県の海防の要衝に挙げている。鄒世詒等『皇朝中外一統輿図』(1863年)は姑米山を琉球の國境として明示し、釣魚臺、黃尾嶼(日本名?久場島)、赤尾嶼(日本名?大正島)を中國の版図としている。民國34(1945年)3月に內政省から地図発行許可を受けて中國史地図表編纂社の刊行した『中韓日形勢図』は釣魚島、赤尾嶼、黃尾嶼の地理的位置を明示しており、これらの島嶼が中國領であることを物語っている。