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まほらまの南京生活⑩文化交流の民間大使 |
発信時(shí)間: 2009-12-22 | チャイナネット |
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◇「楓橋夜泊」の日本語(yǔ)読みと訳◇ 先日、學(xué)生がメールで、張継の「楓橋夜泊」の日本語(yǔ)読みと訳を質(zhì)問(wèn)してきた。日本人の友人から、中國(guó)人なら當(dāng)然知っているだろうと、日本語(yǔ)の読み方と意味を訊かれたのだという。私は次のようにメールで返信した。 ◇ 「楓橋夜泊」(ふうきょうやはく)の読み下し文は次のようになります。 月落烏啼霜満天?。à膜隶楗工胜筏猡皮螭摔撙模?/p> 江楓漁火対愁眠 (こうふうぎょかしゅうみんにたいす) 姑蘇城外寒山寺?。à长饯袱绀Δい螭钉螭福?/p> 夜半鐘聲到客船?。à浃悉螭韦筏绀Δ护い护螭摔い郡耄?/p> ここで注意することは、啼いているのは、中國(guó)語(yǔ)の「烏鴉」ではないということです。烏は夕方や朝方には啼きますが、「夜半」には啼きません。夜半にカラスのような啼き聲でなくのは俗に「夜烏(よがらす)」と言われている「ゴイサギ」という鳥です。中國(guó)語(yǔ)では「蒼行+鳥cang1heng2」と辭書には載っています。 作者の張継は夜中にゴイサギが「カア~カア~」と啼いているのをカラスと間違えたのだと思います。漢詩(shī)に詠まれている動(dòng)植物はたくさんありますが、中國(guó)の人たちは、どのようなものなのかあまり気にしていないようですが、私にはとても気になることです。 ◇ この詩(shī)を授業(yè)中の話のついでに取りあげ、詠まれている詩(shī)の時(shí)刻は一體いつなのかを質(zhì)問(wèn)したことがある。學(xué)生は、「烏が啼いたので明け方かと思ったが、鐘の音でまだ夜半だったことに気がついた」「烏啼は山の名前で、夜半から明け方まで時(shí)刻の移りを表現(xiàn)している」などと答えた。 何か落ち著きの悪い解釈である。夜中に「カア~カア~」と啼き聲がしたことは間違いないのだろう。しかし、それは烏ではなく、夜烏といわれるゴイサギである、とすれば矛盾がない。しかし、張継はゴイサギが夜中に烏のように啼くことを知らなかったのだろう。 これは私の個(gè)人的な推察なのだが、1000年間あまり親しまれてきた詩(shī)でも、外國(guó)人の目でみたら、時(shí)にはまったく違う観點(diǎn)も見(jiàn)えてくることもある。そこに文化交流をする意義も生まれてくるのだと思う。 ◇中國(guó)文化も持ち帰ってほしい◇ 日中間の大學(xué)文化交流などで、日本の古典研究者が南京で講演する機(jī)會(huì)がよくある。學(xué)生たちも難しい話を聴いて良く學(xué)んでいると思う。しかし、講演をした日本の研究者は、自分の話が終わるとすぐに帰國(guó)してしまう。時(shí)間的に忙しいのだろうが、言いたいことだけを話してすぐに帰るのでは交流ではない。日本文化を紹介したのなら、自身でも中國(guó)文化を?qū)Wんで持ち帰ってほしい。せっかく南京にきたのだから、市內(nèi)や周辺の遺跡や文化施設(shè)を見(jiàn)て中國(guó)文化を肌で感じるゆとりを作ってほしい。龍?bào)椿⒕幛趣い铯欷肽暇┦袃?nèi)を散策して、博物館や博物院をみるだけでも、南京への理解が格段に深まるはずである。 ◇養(yǎng)父母慰問(wèn)から歌が生まれた◇ 日本で結(jié)成した東京中國(guó)歌舞団(劉錦程団長(zhǎng))が、1993年から毎年訪中して、中國(guó)に殘された日本人孤児を育ててくれた中國(guó)人養(yǎng)父母を訪れ、感謝と慰問(wèn)を続けている。私も2000年に訪中団に同行して取材したことがある。訪れた養(yǎng)父母は80歳前後の高齢者だったが、どの人もみなとても穏やかで柔和な人だった。 今年も例年通り、東北地方に住む養(yǎng)父母を慰問(wèn)したという。17年間にわたる長(zhǎng)期の活動(dòng)には敬服する。最近私は、訪問(wèn)した養(yǎng)父母を思い出しながら「こんにちはと你好」という歌詞を作った。「寫作」の授業(yè)の資料としてこの歌詞を使ったら、學(xué)生が見(jiàn)事な曲を付けてくれた。 歌詞は次のとおりだが、“文化交流民間大使”として、養(yǎng)父母慰問(wèn)活動(dòng)をお知らせするとともに、機(jī)會(huì)があれば、この歌詞をメロディとともに披露したいと思う。 ◇ こんにちはと你好(nihao) ① こんにちはと你好(nihao) 你好(nihao)はこんにちは 話す言葉は違っても にこにこ笑顔はみな同じ 出會(huì)いと別れ そのたびに 交わし深まる互いの思い こんにちはは你好(nihao) 你好(nihao)とこんにちは ② お父さんと爸爸(baba) 爸爸(baba)はお父さん 話す言葉は違っても 頼もしいのはみな同じ 家庭を守る 溫もりで 深まるきずな寄り合う家族 お父さんは爸爸(baba) 爸爸(baba)とお父さん ③ お母さんと媽媽(mama) 媽媽(mama)はお母さん 話す言葉は違っても 慕う気持ちはみな同じ どの子もどの子 変わりなく 優(yōu)しく強(qiáng)く育ててくれた お母さんは媽媽(mama) 媽媽(mama)とお母さん ④ ありがとうと謝謝(xiexie) 謝謝(xiexie)はありがとう 話す言葉は違っても 伝える思いはみな同じ あの時(shí)めぐり 會(huì)わなけりゃ 今のわたしは生きてはいない ありがとうは謝謝(xiexie) 謝謝(xiexie)とありがとう ⑤ お月さまと月亮(yueliang) 月亮(yueliang)はお月さま 話す言葉は違っても 月見(jiàn)るこころはみな同じ 夜空に屆け 願(yuàn)う夢(mèng) 一路平安(yilupingan)かぐやと嫦娥 お月さまは月亮(yueliang) 月亮(yueliang)とお月さま ⑥日本人(にほんじん)は日本人(ribenren) 中國(guó)人(ちゅうごくじん)は中國(guó)人(zhongguoren) 話す言葉は違っても 漢字で書けばみな同じ 世界に類なき 古い友 一衣帯水(yiyidaishui)歴史と文化 日本人と中國(guó)人 zhongguoren he ribenren ribenren he zhongguoren ◇ ◇屋臺(tái)のおじさんへのお禮に◇ 民間大使に任命された直後、「仲秋の名月を愛(ài)でる日中音楽の夕べ」というイベントが南京大學(xué)であった。日本人留學(xué)生と中國(guó)人の學(xué)生らが月に関する歌を歌い、日本人の女性が浴衣を著て月見(jiàn)団子を振る舞うなど、日本の月見(jiàn)の風(fēng)情を醸し出していた。文化交流の民間大使になったのだから、と要請(qǐng)されて私も參加した。やはり民間大使に任命された二胡演奏家の薫金明老師とハーモニカで「荒城の月」を合奏した。全員がボランティアでの出演であった。 民間大使には報(bào)酬があるわけではない。報(bào)酬を得るために努めるのであれば、純粋な交流ではなく経済交流と同じく、利益がなくなれば途絶えてしまう。利益がなくとも、相互に必要な存在として認(rèn)め合いながら交流を続けていけば、想定以上の効果が雙方に生まれると思う。日中2000年の文化交流の歴史がそれを証明している。 屋臺(tái)のラーメン屋のおじさんは代金を求めず、私がふうふう言いながら食べているのを、ただにこにこして見(jiàn)ているだけだった。50年以上も経て思い出してみると、あの笑顔は日本に対する溫かな思い遣りがあったのではないかと思う。あの時(shí)のラーメンのお禮をするためにも、私は“文化交流民間大使”の任務(wù)を全うしたいと思っている。(寫真はすべて筆者寫す) 「北京週報(bào)日本語(yǔ)版」2009年12月22日
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