中國から日本への移民もかなり早い時期だった。紀元二、三世紀の秦漢期に、一団の中國人が日本に移民したが、その象徴的な代表人物が良く知られている徐福である。徐福は秦の始皇帝を騙して三千人の童男童女と工具、種子などを攜えて海を渡った。「徐福東渡す」は司馬遷の『史記』の最も早い時期の記述である。ただ司馬遷は徐福が日本に到著したとははっきり書いてはおらず、後に中日の両國の伝説でいずれも徐福が古代に中國から日本に移民した代表的人物として伝えている。當時の日本は採集を主とする「縄文時代」から農耕を主とする「彌生時代」に進化する時期であり、この発展は中國からの移民が攜えてきた先進的な生産技術と関係がある。この點は日本の學者も認めている。その後中國から日本に行く移民は絶えることがなく、魏晉南北朝、隋唐、明清の各時代にもあり、たとえば明末期の有名な思想家朱舜水と隠元和尚などもいた。
日本の和服?茶道は中國古代の漢服、茶蕓の深い影響を受けている
第二は使節の派遣である。西暦一世紀から七世紀は朝鮮半島は三國時代であった。三國とは一つは高句麗、一つは百済、一つは新羅である。この三つの國はいずれも中國と使節往來の関係があった。日本の使節派遣もかなり早く、倭奴國は早くも西暦一世紀頃、當時の後漢王朝に使節を派遣し、後の倭五王の時代にも中國に使節を派遣して進貢している。特に日本の奈良平安時代に至って大型使節の派遣を開始した、即ち遣隋使、遣唐使を當時の中國の隋王朝と唐王朝に派遣し、中國の経済、文化、制度、蕓術等を全面的に學び、日本社會の進歩を推進した。日本歴史上の第一回目の改革「大化の改新」は、即ちこのような習得を基礎として行なわれたのである。明王朝の頃には、日本は更に遣明使を派遣し、朝鮮は李朝時代の初年から明王朝に使節を派遣しており、その総計の回數は三百余回にもなった。清朝になると李朝の使節は五百余回にのぼり、大量に中華文化を吸収した。
第三の徑路は留學である。早くも隋唐の時期に、少なからぬ日本や朝鮮の留學生が中國に來ている。更には留學僧、即ち留學した僧侶もおり、かなり有名な留學生が阿倍仲麻呂である。唐王朝期には國子監には新羅留學生は二百人余りおり、中には中國の進士に合格する者もおり唐王朝で官吏となって仕えた。宋代、元代、明代にも更に多くの日本の僧侶が渡來しており、入宋僧、入元僧、入明僧と呼ばれた。
第四は貿易である。朝鮮は中國に対し主として朝貢貿易を行なった。日本は対中國で宋、元の時期には主に民間貿易、明代には勘合貿易、清代に至ると信牌貿易を行なった。(筆者は北京大學歴史學部の王暁秋教授)
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2010年11月19日