「第四の権力」內(nèi)でのパワーが集中しなくなること、パワーの分散化によって、それが社會に方向付けをできない狀況を生み出し、社會に混沌を生み出し、突如として、「第四の権力」にもコントロールをされていない、「悪徳のカリスマ」が登場してしまうことです。これらは、とりわけソーシャルメディア等が擔うと考えられるとおもい、僕は「第五の権力」の黎明期である今から起こりうる問題なのだろうと思っています。
「第四の権力」の暴走は多少みられたものの、それでもやはり、民間「企業(yè)」であり、責任については、一応は法的に存在しているところでありました。しかし、「第五の権力」は真に「見えざる」権力であります。いわば、一極集中しなければ「権力」でもなんでもなく、単なる個人的意見にすぎないわけですが、なにか間違った仕掛けのもとで「カリスマ」が生まれてしまうと、そこに突如として「権力」が発生してしまうという現(xiàn)象でもあると思います。
言い換えれば、「第五の権力」はもともと存在しないものですが、「第四の権力」內(nèi)でガバナンスが効かなくなったところで、「第四の権力」の中の混沌から生み出される一極集中ハブのようなものであるでしょう。「混沌の第四の権力」≒「第五の権力の黎明期」
この「第五の権力」は市民への伝播が拘束でありますので、全體主義から生み出されたとも分析される先の第二次大戦よりもさらに恐ろしい何かが生まれてしまうかもしれません。當時はアナログ的全體主義だったものが、デジタル的全體主義が登場してしまうかもしれません。
一方、現(xiàn)在の日本において、これらを國家が規(guī)制すれば、「言論の自由」に反しますし、これらを國家機関にしてしまえば、情報イノベーションを阻害し、他國と比較し産業(yè)停滯著しくなるでしょう。つまり、現(xiàn)狀の「自由」な狀態(tài)以外の最適な解はないようです。
以上が、「終了」以降の影響を考え、問題提起をするものです。
僕としては、これらへの社會的解決策は、相互ガバナンスなんだろうなぁと考えます。つまり「第五の権力」の中でより競爭が活発になるようにして、誤った「カリスマ」が誕生しないように、相互牽制しあうようなものを想定します。具體的には、その「第五の権力內(nèi)で相互牽制を促進する市民運動」のようなものが発生してきて、初めて「第五」たりうる正式な地位を築くのだろうと思いました。そして、この時に初めて、「混沌の第四の権力」≒「第五の権力の黎明期」ではなく、「第五の権力の発展期」となるのだろうと思います。
???と、話がだいぶそれてしまいましたが、アナログ放送の終了は、ひとつの「第四の権力」の「落ち著き?クールダウン」を示す転換點となったとおもいます。暴走する力はしだいに抑えられ、「社會に適正に吸収された権力」となっていくでしょう。
暴走の終焉か、新しい混亂の始まりか???、日本の社會の動きに注意であります。中國と日本では官製か民間かの差異は大きいですが、中國にとっても近未來の事象なので、ぜひ「日本の先輩」の変化に注視していただきたいと思います。
(中川幸司 アジア経営戦略研究所上席コンサルティング研究員)
?中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)? 2011年7月26日