日本の學者、井上清氏は著書「日本の軍國主義」で、「日清戦爭は日本が近代帝國主義の強盜政策に向かう道を拓いた」と述べている。著者は、中日甲午戦爭(日本名?日清戦爭)には3つの影響があったとし、(1)日本が軍國主義の侵略拡張に向かう道を拓いた(2)日本の軍國主義が中國に対して侵略を繰り返す歴史を拓いた(3)日本人の傲慢さと橫暴さを育成し、膨張させた――との見方を示す。このときから「東洋の覇者」や「萬世一系」は日本人の根強い名譽となった。甲午戦爭で形成された軍國主義の道、侵略拡張政策、思い上がった右翼勢力の三位一體の軍國政治と植民地文化によって日本は1世紀以上の「甲午戦爭の遺産」を背負うこととなった。
甲午戦爭で形成されたこの政治的遺産は日本の近現代の発展を支える核心的価値、政府の內政?外交の戦略的基盤となった。甲午戦爭から40年代まで日本発展の歴史は、戦爭の歴史、侵略の歴史といえる。19世紀末以降の日本はこの政治的遺産を原動力に軍國主義に向かって走り、日露戦爭、中國侵略戦爭、真珠灣攻撃などを発動、日本は世界の近現代史上、侵略戦爭を発動した回數が最も多く、持続期間が最も長く、波及面が最も広く、危害が最も著しい國となった。
「甲午戦爭の遺産」は中國などアジアの國に多大な災難をもたらすとともに、日本に無殘な代償を払わせた。當時の日本経済安定本部の統計によると、1941年以降の戦死者180萬人、國家財産の損失643億9200萬円、空襲による直接的な経済損失486億4900萬円、航空機と艦艇の損失だけでも340億円に達する。これらの數字を合わせると當時の日本の財政収入の數十倍になる。
日本は戦後過ちを徹底的に改め、甲午戦爭の遺産と決別すべきであった。しかし殘念なことに日本は適當にお茶を濁し、天皇制という軍國主義の禍根を殘した。40年代末から50年代初めにかけ、多くのA級戦犯が満期を待たずに釈放され、政界に復帰し、首相になった者までいた。戦前のファシズム、軍國主義組織が復活し、國民教育も再び軍國政治と植民地文化を中心に展開し、「甲午戦爭の遺産」が再び戦後の日本において國民の闘志をかきたてるアヘンとなった。