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1984年の3000人訪中団が植えた「種」、日本各地で開花

1984年の3000人訪中団が植えた「種」、日本各地で開花。 1984年秋、3000人の日本の若者が招きを受けて中國を訪れた。訪中した日本の若者の多くはすでに、50歳を超えている。この訪中體験は彼らに何をもたらしたのか。歴史の瞬間を目の當たりにした彼らは今、何をしているのだろうか…

タグ: 訪中団 若者 帰國

発信時間: 2015-10-24 09:14:28 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

中國の習近平國家主席は5月23日、日本からやって來た3000人訪中団に人民大會堂で接見した。80近くのグループからなるこの「日中観光文化交流団」は、近年まれに見る大型訪中活動団となった。今回の活動はまた、多くの人に1984年の一大イベントを思い起こさせるものともなった。同年秋、3000人の日本の若者が招きを受けて中國を訪れた。1972年の中日國交正常化後の初めての大規模交流活動であり、當時の特別な時代においてユニークな意義を持ち、忘れがたい記憶を殘すイベントとなった。訪中した日本の若者の多くはすでに、50歳を超えている。この訪中體験は彼らに何をもたらしたのか。歴史の瞬間を目の當たりにした彼らは今、何をしているのだろうか。「環球時報」記者が追跡取材した。

1.「歴史的な瞬間に立ち會うチャンス」

7月も中旬から下旬に差し掛かったすがすがしい朝、記者は東京から香川県の高松空港に到著した。出迎えの人々の中に、「環球時報」と書かれたプレートを見つけ、香川県市會議員の大平敏弘氏とすぐに落ち合うことができた。1984年に訪中した3000人の日本人のうちの一人である。大平氏は幼なじみを連れてきていた。當時、やはり訪中団の一員となった荻田英俊氏である。荻田氏は新しく買ったという車で記者を迎えに來てくれていた。二人はまず、記者を瀬戸大橋にまで連れて行き、故郷の壯大な風景を見せてくれた。

二人にはその後、喫茶店で話を聞いた。1954年生まれの大平氏は高校卒業後、大學には行かず、父を継いで農業を始めた。その後、香川県連合青年會に入り、數年後には副會長に選ばれた。1984年、中國側の訪問の招きを受けた日本外務省と日中友好協會は日本各地に訪問者の枠を分配した。最初は青年會の會長が參加するはずだったが、會長に用事があったため、副會長の大平氏が代わって參加することになった。31年が経った今も、大平氏は當時の喜びを覚えている。「あの日、會長が電話をかけて來た時は、嬉しくてたまらず、歴史的な瞬間に立ち會うチャンスだと、すぐに受けた。會長に用事があって本當によかった」

物靜かな荻田氏は、31年前に引き戻されたように物思いにふけっていた。天安門で中國の國慶節(建國記念日)35周年の閲兵式の様子を思い出したのだという。「中國政府は私たちのために人民大會堂のそばに參観臺を用意してくれていた。そこからは式典の様子がよく見えた」と荻田さんは語る。「パレードでは、學生の隊列、軍人の隊列、それに戦車やミサイル、裝甲車などの隊列が見られた。少なくとも數百臺は通ったが、とても數えきれなかった。最後に中國の女子バレーチームが現れた。あの時の場面は壯観で、にぎやかで、忘れられない」

荻田氏の語った場景は、後に山形県の小野寺喜一郎氏(1984年日本訪中団の総団長)の家を訪ねた時にも確かめられた。小野寺氏は、一般団員の持っていない貴重な資料を保存していた。寫真や新聞の切り抜き、映像記録である。「當時、両國指導者の式辭が終わった後、私も話をすることになっていた。とても緊張してしまって、式辭で話された內容などは覚えていない」。

小野寺氏が映像記録を見せてくれたのは午後11時近くだった。一日中奔走した記者は疲労していたが、69歳の小野寺氏は思い出に浸って、元気いっぱいであった。「ほら見てごらん。これを知っているか」。畫面では二人の女子が「四季の歌」を歌っていた。小野寺氏は記者の答えを待たずに「芹洋子と彭麗媛だ。良い歌だろう!」と教えてくれた。

當時、日本側の3000人は帰國後、それぞれ自分の地方に戻った。小さなグループでの交流以外は、皆で再開する機會もなかった。1984年の秋だけが、彼らの共通の記憶となったのである。

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