韓國の大手通信社「聯(lián)合ニュース」が10月8日に伝えた內(nèi)容を以下に紹介する。
韓國國際研究院の崔書勉(チェ?ソミョン)院長は先日、當(dāng)時、ソウルの日本大使館に勤務(wù)していた內(nèi)田定槌(明治~大正期の外交官)領(lǐng)事が綴った回顧録を公開した。內(nèi)田定槌の回顧録によると、1895年10月8日、閔妃(韓國や中國では「明成皇后」と呼ばれている。李氏朝鮮王國第26代皇帝高宗の妃)殺害を企てた三浦梧樓公使は、事件発生後、本國外務(wù)省との通信手段を斷ち、暗殺事件を隠蔽しようとしたことが記されている。
內(nèi)田定槌は1889年外務(wù)省に入省、1893年から漢城(現(xiàn)ソウル市)の日本大使館領(lǐng)事に著任した。任期中、閔妃(明成皇后)暗殺事件があり、事件の詳細(xì)をよく知る人物とされている。晩年の1939年、外務(wù)省の求めに応じ回顧録を作成している。回顧録によると、「1895年10月8日早朝、(中略)公使(三浦梧樓在朝鮮國特命全権公使)は床の間に不動明王の像を飾って、燈明を上げて拝んでいる。そこで私が『大変な騒ぎになりましたね』と言うと、公使は『いやこれで朝鮮もようやく日本のものになった。もう安心だ』と言う。それで私は『(中略)日本人が血刀を提げて白晝公然と京の街を歩いているのを、朝鮮人はもとより、外國人も見たに違いないから、日本人がこの事変に関係ないことを隠すことはできません。(後略)それについて、どういう方法を講じたらいいでしょう』と言ったが、公使は『俺も今はそれを考えているのだ』と言われた」ことが記されている。
回顧録には、「(前略)それからどうしたらいいか考えがつかない。外務(wù)省へ知らせようと思っても電信は公使の命令で差し止められてしまっている。公使館以外のものは、一切の電報を打つことを差し止められてしまったので、私も無論電信を出すことは出來ない。(中略)後で聞けば、『昨夜、王城(皇居)に事変あり、王妃の行方が不明』と言う電報を公使館から外務(wù)省へ送ったそうだが(後略)」と記されている。このあたりから、三浦梧樓が外務(wù)省に虛偽の報告を行ったことが証明できる。