第2に、日本は戦後、対東南アジア外交の改善を特に重視した。たとえば戦後、日本は大量に略奪した東南アジアの資源によって、國際社會(huì)復(fù)帰の第1資金を獲得したが、これは現(xiàn)地の資源と環(huán)境に深刻な破壊をもたらした。このため東南アジアで日本は「エコノミック?アニマル」とのニックネームをつけられた。1977年に福田元首相が東南アジア訪問時(shí)に「福田ドクトリン」を発表。「われわれはわれわれの開発方式に注意し、このように大きな環(huán)境?資源災(zāi)害を再びみなさんに與えないようにする」と述べ、新たな関係の構(gòu)築を強(qiáng)調(diào)した。その後、日本は取り組みの改善に非常に注意し、東南アジア地域資源の主要提供國となった。また、東南アジアの一部の國は他國との間に摩擦を抱えている。たとえば島嶼紛爭では南中國海を5カ國6者が爭奪する中、米國および日本の力を借りて、この問題で比較的有利に立とうと企てている。もちろん、これは徒労に終るだろう。(編集NA)
「人民網(wǎng)日本語版」2014年4月11日