文=奧井禮喜
敗戦からまだ日も淺い1947年4月20日、長野県飯田市に大火災が発生した。市街地の3/4に當たる60萬?が消失した。再建に向けて市中心部に東西南北25m幅、中央に緑地帯のある防火道路が建設された。
1952年、飯田東中學校の松島八郎校長が札幌市へ出張した際、街路の見事さに強く印象づけられ、全校生徒に感激を語った。感銘した生徒たちは緑地帯に「リンゴ並木」作りを決議する。これだけでも感激に価する話である。
校長が先生方にはかると全員賛成?!缸苑证郡沥涝挙工搿工趣筏剖肖颂岚袱筏?。育ちにくい、結実すれば盜まれるなど反対論が邪魔をする。生徒たちは再度植樹計畫を決議して申し入れた。話を聞いた新しい助役は、立ち上がって校長と生徒の手を握りしめた。苗木は市が提供することになった。
1953年9月の日曜日、1,500人全校生參加で植樹作業が開始した。直徑3m?深さ2mの穴を掘る。人力作業である。同11月8日、400mにわたって40本の苗木が植えられた。生徒は緑化部を作り、剪定?土づくり?散布?施肥?消毒?袋かけ?摘花?収穫の作業をおこなう。
1955年最初のリンゴが結実した。花火大會の夜、すっかり盜まれて殘ったのは4個だった。全國から激勵の手紙が殺到した。生徒たちの意気は挫けなかった。現在も脈々と後輩たちに受け継がれている。
1968年にはリンゴ並木を減らして駐車場を作れという聲が上がった。駐車場反対運動が巻き起こり立ち消えになった。1974年、札幌市美園の高齢者が飯田市にならってリンゴ並木を作った。
もう一つ、十數年前、岐阜県清見村を訪れた。飛騨牛の産地として有名になっているが當時は全國へ売り出し開始という時期である。村営レストランが作られアルプス少女風ユニフォームの女性がウェイトレスである。