意味深長な感じがするのは、上述のこれまで非常にノーベル賞に近かった日本人たちが、第二次大戦前の日本で登場していることだ。では、大戦後はどうだろうか。第二次大戦後、あわせて10人の日本人がノーベル賞自然科學部門の3大賞を受賞しているが、彼らには一つの共通點がある。それは米國で學んだという背景を持っているということだ。現代の日本にはノーベル賞受賞者を育める土壌が整っていないということか。分析すると、理由は主に二つ考えられる。研究の資金と環境だ。
現在、受賞したばかりのiPS細胞の研究を例に取ると、日本文部科學省は、2007年、この醫療関連分野への投入予算を10億円に減らした。2008年には45億円に上限修正、2012年も67億円が計上されている。數字から見ると決して少なくない。だが、米國と比べると大きな差がある。
日本科學技術振興機構の研究開発戦略センターは発表した2011年の報告書によれば、2012年、アメリカ國立衛生研究所が、同じ分野に投入した研究費は68億円。カリフォルニア州だけでも、4年間で72億円を投入している。道理で多くの日本人研究者が期せずして次々と米國を選択するはずだ。
さらにこれまでの受賞者がどのような研究環境だったかを見てみよう。日本の講談社から10月10日発売された、山中伸彌教授の最新自伝『山中伸彌先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』では、山中教授自らが、自分は米國留學から帰ってきてうつ病になったといっている。研究所では自分は直接研究に攜わらせてもらえず、自分は研究用のラットの面倒を見るしかなく、毎日ラットの飼育籠を掃除していたという。こうした待遇は彼に自信を失わせ、研究をやめようとまで思わせた。その後、家族の支えもあってようやくうつ病を克服した。10月9日の記者會見では、公衆の面前で「日本で研究していた間、夜は診察があり、土曜、日曜も病院の當番があって、ほとんど家に帰れなかった」と明かしている。