文=奧井禮喜
自民黨という政黨は全然変わらぬ政黨らしい。頭を垂れていればなんでもやれると錯覚しているみたいでもある。いまだ米國に與えられた憲法だなどとうそぶく。それを戦後生まれの諸氏が公言するのだから始末が悪い。
もちろんポツダム宣言を受諾し、占領軍の監視下で制定した憲法であることは事実である。國民が専制國家打倒の戦いを経て獲得したものではない。しかし明治憲法と比較してみよ。彼我の差は歴然としている。
國連憲章、世界人権宣言と比較してみよ。わが日本國憲法が自他ともに誇らしい內容であることは一目瞭然である。この憲法を変えようとするのが自民黨內部のもっとも頑迷固陋な部分である。
さすがに自民黨も民主主義を変えるとは公言できない。だからなんとか基本的人権の上に國家意識を君臨させようとして、あの手この手の銭湯談義を繰り返す。実際、そのセンスの悪さには辟易する。
そもそも自民黨が民主主義を理解しているのかというと、どうもわかっているようには見えない。自民黨は昔から自分黨だと公言する人が少なくない。実は、ここに自民黨の民主主義學習不足が露呈している。
彼らは、個人主義と自己中心主義の區別がつかない。だから自分黨というような表現を平然として使うのである。考えてもみよ、皆が自分黨を名乗れば一億総自分黨であって、國家など成立しないではないか。
だから自民黨は、バラバラの自分では國威も國力も形成できないという理屈で、個人の上に國家を君臨させようとするのである。まさに17世紀のホッブズ(1588~1679)「リヴァイアサン」に逆戻りである。