文=奧井禮喜
いじめという行為は1980年代以降、學校で大きな問題として登場した。
さまざまの形がある。肉體に與える暴力のみならず、言葉にせよ、しかと(無視)にせよ、いずれも暴力であって虐待である。犯罪と変わらない。
子供は時として殘酷なことをするという説がある。百歩譲って無知蒙昧だからやりかねないと考えるにしても、いじめがあっても「いたしかたなし」と肯定する理由にはならない。
なんのために大人がいて、學校があって、社會があるのか。
いじめは子供社會に限らない。個別労使紛爭が100萬件を超え、その多くがいじめだというではないか。職場が明るくない背景には、無言の圧力が加わっていると考えれば、これもまたいじめの一形態である。
しかもいじめられる側はほとんど1人であって、いじめる側は複數である。1人を圧倒的多數がいじめるというような陰慘な場合もある。こうなればリンチであって、無法地帯である。
孤軍奮闘して、多數の暴挙に対して耐えるのは難しい。このくらいは誰にでもわかる。さらに、いじめられている人が孤立しているという事実にもっと本気で注目しなければならない。
朝日新聞は「いじめられている君へ」というシリーズを展開中だ。この企畫の意図は、いじめられている人が思いつめて最悪の選択をしないように、なんらかの気づきを與え、勵まそうとするのであろう。
たとえば、いじめにあったら「てんでんこ」で逃げろという。「學校はいじめられ辛い思いをしてまで行くようなところではない」という有名人コメントも登場した。