▽中國人と共に侵略戦爭に対抗
小林さんは八路軍から信頼され、重視されていると感じるようになった。「九一八事変」(満州事変)10周年の1941年9月18日、小林さんや小林清さんら數人の日本人は反戦同盟膠東支部を結成、正式に八路軍の一員となり、中國國民と共に抗日戦爭に參加することになった。
この変化について小林さんは「75年前、私は八路軍の兵士に銃口を向けた日本兵の1人だった。八路軍の捕虜になった後も、八路軍は私を敵として扱わず、十分な自由と平等を與えてくれ、私を友人、兄弟、同志として扱い、私の目を覚ましてくれた」と語る。小林さんは捕虜になった後、日本の帝國主義が中國に対して発動した戦爭は、正義のない侵略戦爭であったと理解し、侵略を食い止めるべきであること、中日両國の國民を日本の軍國主義から解放すべきであることを悟った。
小林さんは他の反戦同盟のメンバーと共に、日本軍に向けた反戦のビラを書き、配った。また、日本軍が通り過ぎた場所には標語を書いた。彼らは日本軍の電話線を利用して日本の兵士に電話をかけたり、八路軍兵士の援護の下、日本軍の拠點の近くで、大きな聲で投降を呼びかけたりした。
小林さんは積極的に働き、勇敢かつ忠義にあふれていたため、山東軍區反戦同盟魯中支部副支部長に任命された。1943年の八路軍山東軍區関連會議において、小林さんは在中日本人反戦同盟華北聨合會山東分會委員に選ばれた。1944年8月、小林さんは日本人民解放聯盟浜海支部の支部長となり、聯盟のメンバーを引き連れて反戦の宣伝を積極的に行った。