(一)
日本では色々なものが目まぐるしく変わる。その移り変わりの激しさに翻弄されることも少なくない。首相がその最もたる例である。私はこの數(shù)年間に4人の首相に會ったことがあるが、今ではそのすべてが「元首相」になってしまっている。
だが、首相交代劇を除けば、日本にはそれほどコロコロ何かを変える習(xí)慣はない。「いったん決めたことは最後までやり抜く」というのが日本の特徴だと言えるだろう。日本のサッカーがレベルアップしたのは、こうと決めたやり方を貫いたからにすぎない。その結(jié)果として、日本のサッカーは世界でも中堅國、アジアではトップクラスの地位にまで上り詰めることができたのである。
(二)
1980年代、私は日本のサッカーを見下していた。中國チームとの試合でも、日本チームが一勝することがあっても、二試合、三試合と続けば、中國の白星が圧倒的に多かった。その実力の差は誰が見ても明らかだったのだ。だが、その20年後、肝腎な試合において、中國チームが日本チームをやっつけることは出來なくなっていた。
1993年、日本ではJリーグが開幕し、サッカーのプロ化が始まった。中國も1990年代半ばからプロサッカーリーグが設(shè)立された。日本は當(dāng)初の考えを変えることなく20年を歩み続けたが、中國は、サッカー協(xié)會により何度も「壯大な10年計畫」が練り直され、その度にこれまでの計畫が白紙になった。戦略がコロコロ変わり、中國のサッカーが退化し続ける主な原因となっていったのである。それもいたしかたないと言えるだろう。なぜなら中國では、サッカーの成績、イコール、サッカー協(xié)會長の功績になるからである。協(xié)會長が変わればそれに連なるすべてが変わる。そして、最終的に、中國のサッカーをレベルダウンさせてしまうことになったのである。