その時、國際社會では天皇を含む日本の戦犯を処罰する呼び聲が高まっており、平和と自由を獲得したばかりの日本國民は、新憲法草案の內容にひどく失望させられた。連合軍最高司令官のマッカーサーは、新憲法を早期制定し、日本國內外の不満をなだめる必要性を感じた。マッカーサーはまた天皇を守ることで、連合軍の日本占領に向け安定的な環境を演出しようとした。そこでマッカーサーは連合國総司令部民政局に、憲法草案の一部の作成を擔當させ、「國民が主権を握り、天皇を象徴とし、戦爭を放棄する」という三つの基本原則を掲げた。
連合國総司令部民政局が當初起草した憲法草案は、當時の幣原內閣の強い反発にあった。歴史學者の半藤一利氏が記した「昭和史」によると、幣原內閣が連合國総司令部の憲法草案を受け入れなかった場合、連合國総司令部は國民投票を行わざるを得なくなり、これにより憲法草案が可決される可能性が高かった。當時の日本人は、かつての政治家?軍人により組織される本國政府をまったく信頼していなかったからだ。また幣原本人が1946年2月22日に皇居に赴き、連合國総司令部の憲法草案について報告した際、昭和天皇は天皇のすべての政治権力が剝奪されることになろうとも、最も徹底的な改革を行うよう表明した。天皇の表明を受け、幣原內閣は抵抗をあきらめた。
上述した史実からも、日本の現行の平和憲法の制定は、安倍首相が言うように占領軍が日本に押し付けたものではなく、當時の日本では平和を希望する民衆が圧倒的多數を占めており、天皇までもが自らこれを選択したことが分かる。平和憲法の制定を不服とし、あくまでも抵抗したのは、少數の軍國主義の殘黨だけだ。
「中國網日本語版(チャイナネット)」2013年5月10日