ムラ意識を一般化して考えれば、要するに、誰にでも理解できないのだから、意識するかしないかに関わらず、あらゆる分野でムラが形成されている次第である。
動物?比較心理學者J.J.ユクスキュル(獨 1864?1944)は、「主體としての動物が知覚し作用する環境の総體が、それぞれの動物の世界をなす」と指摘した。環境は、ある主體の周囲に単に存在しているものに過ぎない。
主體は自分が意味を與えた世界(ユクスキュルはこれを環境世界とした)を構築して生活している。環境世界は、大きな環境から切り出されたものである云々。人もまた自分の関心領域のみに熱中しつつ生活している。
政治家が「國家國民のために」という看板をぶら下げつつ、政局に一路邁進する(ようにみえる)のは、國家國民という抽象的な環境(摑みどころがない)よりも、自分が政治によって生きることを優先するからであろう。
もちろんここでは政治家の批判をするのが目的ではない。政治家がよほど強いプロとしての政治家精神を構築していない限り、政治家も人間であり、かつまた一般的には動物だからユクスキュルの卓見と合致するだろう。
話を戻そう。愚民政治という言葉がある。一般人は、なにごとによらず知識が淺いから、《ムラ》関係者が常識だと考えていることでも十分な理解ができない。當然ながら判斷力が低い。だから合意を形成しにくい。そこで、
ご親切な「由らしむべし、知らしむべからず」流が現代の民主主義社會においても顔を出す。一般人は科學リテラシーが低い。事実を言えば恐怖で恐慌をきたすかもしれない。「とにかく大丈夫だ」という記者會見を記憶する。